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#12 “Unite the NINE” 太田市政56年の歩み 〜埋没する地域の個性の再発掘を目指して〜

2005年3月28日、太田市、尾島町、新田町、藪塚本町が合併し、新しい太田市が誕生します。合併を直前に控え、最後に間もなく消滅する今の太田市について若干の文章をまとめて見たいと思います。

1948(昭和23)年5月3日、群馬県内5番目の市として、太田市は発足しました。その後の昭和の大合併期に見られたような、複数の町村が合併して市制を敷いたものではなく、当時の新田郡太田町が単独で市制施行をしたものです。しかし、これには若干の注意が必要です。市になる前に、かつての太田町は1940(昭和15)年に九合(くあい)・沢野(さわの)・韮川(にらがわ)の3村を、また1943(昭和18)年には鳥之郷(とりのごう)村を相次いで合併しておりまして、単独の町としては、当時では比較的規模の大きい自治体だったわけです。このことは、太田の町を中心に急速に成長を遂げていた飛行機(軍需)産業の存在を抜きに語ることはできません。戦後、「スバル」のブランド名で知られる自動車メーカー、富士重工業の前身は、数多くの軍用機を世に送り出した一大企業、中島飛行機でした。第二次世界大戦に向かう流れにのって同社は多くの労働者を太田やその周辺の村々に集めさせながら成長し、上記した合併もその一環として急造的になされた出来事であったわけです。中島飛行機が残した製造業の技術は、戦後の輸送機械・電気機械等の製造業へと受け継がれました。産業の成長はいっそうの社会増を太田市にもたらし、1957(昭和32)年に強戸(ごうど)村と休泊(きゅうはく)村が、1960(昭和35)年に矢場川村(一部)が、1963(昭和38)年に宝泉(ほうせん)村と毛里田(もりた)村が太田市に編入されたことともあいまって、今日の人口15万、製造品出荷額1兆円超のまちが築かれてきたわけです。

丸山町

丸山宿の景観
(太田市丸山町、2001.4.7撮影)



塚廻り古墳群第4号墳
(太田市龍舞町、2003.9.15撮影)

金山、右端にうっすらと赤城山

金山を望む
(太田市龍舞町、2003.9.15撮影)
金龍寺

金龍寺・紅葉
(太田市金山町、2003.12.2撮影)

 
本稿執筆にあたり、太田市内で撮影していた、たおやかな地域の写真を8枚掲げています。約30年間このまちに居住してきた私でさえも、何の特徴もない、ともすればどうでもよいような町であるようについつい思ってしまいます。しかしながら、地域を注視していますと、ほんとうにたくさんの、穏やかで美しい風景に出会えるものだと、過去に撮影した写真を確認しながら実感しました。丸山宿は、市内北部毛里田地区にあります。かつての「あずま道(東山道を継承した街道と思われます、現在も太田市内では県道足利伊勢崎線のルートがそれをトレースしているようです)」沿いに発達した宿場で、地名のもととなった丸い形の山(写真背後にも映っています)の姿と共に、昔を思い起こさせる掘割と町屋の残る景観が美しいエリアです。塚廻り古墳群は市内東部、休泊地区の水田の耕地整理中に発見されたもので、武人・屋形・馬・巫女などさまざまな埴輪が一挙に出土しました。東京国立博物館に展示されている武人埴輪は国宝に指定されています。太田市の中央に軽やかな稜線を見せる金山は、古来より「にいた山(にいた→新田と転訛)」と呼称され、東歌のなかにもしばしば歌枕として登場する、地域の自然環境を代表する事物です。金山は中世山城として整備されまして、現在山頂部の城郭の遺構を往時の姿に復原する工事が進捗しています。徳川家康が開いた大光院、秋の紅葉が美しい新田市の菩提寺・金龍寺など、金山周辺には歴史を感じさせる史跡も多くあります。


大光院

大光院・開山堂
(太田市金山町、2003.9.15撮影)

金山城址

金山城址
(太田市金山町、2004.4.25撮影)

イオン太田

イオン太田ショッピングセンター
(太田市石原町、2003.12.5撮影)
太田市街地俯瞰

太田市街地俯瞰(金山頂上より)
(太田市金山町、2004.4.25撮影)

翻って、太田市の56年を考えてみますと(もっとも、そのすべてを生きていたわけではありませんが)、成長する産業、それに牽引される社会増加、そして商業販売額の増長に対し、その都市的膨張を追いかけるように都市基盤をなりふり構わず整備して、多様化する市民ニーズに応えてきた歴史であったのではないでしょうか。1つの都市として十分に統率のとれた政策を打ち出すというよりは、合併前の9つの地区(太田、九合、沢野、韮川、鳥之郷、休泊、強戸、宝泉、毛里田)間における均衡にことさらに注意を払いながら諸施設・諸制度を整えてきたように思えます。中島飛行機以降、わずか100年かそこそこの時間の間に、わずかな街道沿いの町場や寺院の門前町のほかは広大な農村地域が展開していた地域には、工業団地が建ち、道路が増え、住宅が増え、自動車が溢れて、郊外型の商業機能が雨後の筍のごとく勃興する、かつてないほどの目まぐるしい変化を見ました。社会構造も大きく変容し、直接的にはこの地域にオリジンを持たない層(最近10年ほどで激増した外国人も含め)も、現在の太田市では無視できないほどの比率を占めるに至っています。市ができて56年、そしてさらなる合併を迎え、旧来の地域構造の枠組みにとらわれることなく、地域の真の特徴や資源を省みながら、画一的なものだけではなく、よりフレキシブルな視点に立った考え方が必要になってくるのではないかな、とも考えます。

2005年3月28日、太田市は尾島町、新田町、藪塚本町の地域を加えたあらたな太田市となり、「9つの地区」は「16の地区」へと拡大します。それぞれの地区に同じような資源を投入するといった融和的な政策的視点に加えて、それらの枠組みにとらわれず、それぞれの地域のもつ持ち味に注目し、地域ごとに機能を分担できるような視点もまた、新市にとって重要になるのではないかなとも思います。“Unite the NINE”から、“Unite the 16 Respect”へ。新たな太田市の鼓動が、いま、始まります。


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