#11 さいたま市の過去、現在、未来 〜結びにかえて〜
これまで、4回にわたってさいたま市内を歩き、そこで感じたことなどを10回にわたって書いてきました。私が歩いた地域は、まだまだ広大なさいたま市の一部地域であり、さいたま市を知るためにはもっとたくさんの経験を積む必要があるかと思います。とはいえ、一応はさいたま市内を広範にカバーすることができ、ある程度の考えをまとめることができそうですし、これまでの走り書きをまとめる意義もあるかなとも思いましたので、この辺で一区切りをつけたいなとも思いました。本稿で、これまでの探訪を総括し、若干の考察をすることによって、このシリーズの結びとしたいと思います。
さいたま市の探訪をしようと思った直接のきっかけは、区名案をめぐる市民運動の高まりを受けて、ただ地図上でこの地域のことを思い巡らすだけでこの地域のことを理解するには限界があると感じ、実際に現地を見てみようと思い立ったことでした。渦中の見沼田んぼを歩き、当地の自然環境を目の当たりにして思った以上の収穫を得、その勢いで、さいたま新都心、与野本町、荒川の東側一帯、そして大宮と浦和の市街地と、連続的に踏破してしまいました。さいたま市には、私にこれほどのことをさせるだけの魅力と地域性があったのです。
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見沼自然公園
(2002.11.2撮影) |
見沼田んぼでは、首都圏に近接した貴重な緑地環境としてのすばらしい景観を実感しながらも、かなりの部分が水田ではなく樹林畑として利用されて乾燥化がすすんでいること、一部に荒地が存在していることなどにも目の当たりにし、さいたま市の誇る貴重な自然環境として保護を進めていくべきではないか、それも近代的な都市公園としてではなく、より自然に近い佇まいをとどめる緑地帯として、保全していく必要性を切実に感じました。
与野本町は、さいたま新都心と近接しているがゆえに「中央区」となり、新都心の陰に隠れてしまう懸念があります。氷川神社や円乗院、鈴谷の大カヤ、そして中山道脇往還の市場町としてのゆたかな町並みは、さいたま市の持つ貴重な財産の1つと思います。本町東、本町西地区に「与野」の地名を何らかの形で残すなどの取り組みによって、この街の情緒を積極的に新市のまちづくりに位置付けていく必要があるように思います。
秋ヶ瀬公園から、指扇駅周辺にかけての荒川東岸地域は、一般に荒川の自然と屋敷林、旧家、耕地とで構成される風景を構成要素とした農村地域を基礎にしています。秋ヶ瀬公園や、JR川越線より北の地域においては、都市化とこの原風景とが十分にマッチして、ゆたかな景観を構成しています。今後もこういった地域の風土を損なわないように、守り育てていくことが必要です。一方で、JR西浦和駅の西方では、新大宮バイパスの沿線を中心に、住宅地や工業用地、流通団地等が無秩序に並立し、雑然とした都市景観を呈しています。これは、ひとえにこれらの地域が都市計画上「準工業地域」とされていることの弊害と考えられます。行政は、必要に応じて施設の配置に関して一定の指導を行っていく必要があるのではないでしょうか。また、旧大宮市地域の西部(「西区」予定区域)においても、一部の地域において、雑然とした土地利用が見て取れます。これは、県道さいたま鴻巣線が、新大宮バイパス混雑時の迂回路的なルートとして想定されていることがあるいは関連しているのかもしれません。現在は市街化調整区域となっているようですが、この界隈の地域的風土に十分配慮した(無秩序な工場等の設置を抑制するなど)施設配置政策が求められているように感じます。
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マンションと工場とが隣り合う
(さいたま市田島、2002.11.16撮影) |
大宮、さいたま新都心、浦和の中心市街地は、それぞれに個性を持ったさいたま市の中核地域です。大宮は最大の商業核として、また自然と歴史と市街地のとの調和のとれた豊かな都会として、すぐれた潜在性を持っていると思います。今後とも、中山道の宿場町、氷川神社を擁する歴史の町としての基盤を維持し、現在のゆたかな都市景観を維持していって欲しいと思います。さいたま新都心は、関東地域を管轄する諸機関の集積する行政センターとして、また新生さいたま市の融和の象徴として、魅力ある近代市街地の整備を今後とも進めていって欲しいですね。浦和は、県政の中心としての伝統をもった実力ある市街地です。大宮やさいたま新都心のような鮮烈さにはやや欠ける面もありますが、新たに発足する9つの行政区の中で最大の人口を擁する南区地域とともに、行政中心としてのポテンシャルを生かしながら、この地域を意識付ける個性の創出を期待したいです(それが何であるかは、難しい問題ですが)。
都市化の荒波をかぶって久しいこの地域ですが、市街化は、基本的に台地と低地をあまり意識することなく進んでいきました。とはいえ、中山道や大宮、浦和の宿場町、与野の市場町は中央の高燥の台地に立地し、周辺の集落も、基本的に台地上にあり、また沖積地においてもそれは微高地を指向しています。また、台地と低地の境界の急崖には、斜面林と呼ばれる豊かな森が形成され、この地域の代表的景観の1つとなっています。さらに、冬の北西風の卓越する台地上では、しばしば砂塵が舞うため、屋敷林の発達が促されました。一方、見沼を始めとした低地においては、氷川神社の信仰などのゆたかな文化が育まれました。
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さいたま新都心、けやきひろば
(2002.11.30撮影) |
現在、人口およそ100万を擁する「さいたま市」は、このようにさまざまな過程を経てつくられてきたのですが、その基盤には台地と低地の交わる地域ならではの原風景があるということ。このシリーズでは、ことさらにさいたま市域における「台地」と「低地」の地勢について詳述してきましたが、これはこの「原風景」を間接的に象徴するキーワードとして、「台地」と「低地」という言葉を用いてきたという隠れた意図があったのです。
台地と低地とに広がる農村地帯を基礎とし、宿場町や市場町、農村集落として派生した諸地域が成長し、日本の近代化に伴う首都圏の肥大化による都市化を受けて、浦和市、大宮市、与野市という行政地域として再編成されたこの地域が、新たに政令指定都市「さいたま市」としての更なる飛躍の道を選択しました。個性ある諸地域が、それぞれの個性を生かしながらも、新しいまちづくりのために一丸とならなければなりません。その際に、ヒントとなりそうなのが、この地域が共通して持っている原風景が織り成す風土なのではないか。さいたま市を歩く時間が増えるほどに、さいたま市の各所に残る原風景の断片に遭遇すればするほど、その思いは強くなりました。昔に戻れというのではありません。時代を経てそれぞれに違った性格を持ってきた諸地域ですが、足元の基盤は同じなんだ。だったら、その同じ部分を尊重しながら、その部分で1つになれるようなまちにすればいい。さいたま市に、またこれから生まれる9つの区に居住するそれぞれの市民が、その基盤を見つめなおして、あらたなまちづくりのために邁進する姿を、是非見てみたいですし、大いに期待しているところであります。もちろん、それはそれぞれの地域が大宮、浦和、与野というまちとしてすごしてきた時代を無視するものであってはいけません。その時代を含めた様々な個性もまた、十分に尊重されねばなりません。
今回の「シリーズさいたま市の風景」が、そんなまちづくりのための一助となることを期待しつつ、本稿の結びとしたいと思います。
シリーズさいたま市の風景 −完−
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