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2008年12月、「シリーズさいたま市の風景」を執筆してから6年を経て、再びさいたま市内のフィールドワークを行いました。 穏やかな早春の空と風の下、あれから政令指定都市に移行し、その後編入された旧岩槻市エリアも含めてご紹介してまいります。 |
城下町岩槻より南へ |
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岩槻の町を歩く 2008年12月6日、前回の見沼田んぼフィールドワークの終着点である七里駅から一駅東の岩槻駅よりこの日のフィールドワークをスタートさせました。やや風が冷たいながらもこの日もたいへんよい天気で、昼前の駅前は行き交う人の数も多く見受けられました。旧城下町を基盤とした岩槻の町は商業集積も比較的高密で、再開発ビルの「WATSU(ワッツ)」をはじめとした低層のビル群が小ぢんまりとした駅舎を見下ろすように建てられていました。岩槻の名産である人形を販売する多くの店先の前を行き過ぎながら、駅前の通りを進んでいきます。 岩槻は、室町期の終わりころに築かれた岩槻城を中心に成長してきました。城は元荒川と綾瀬川の間に広がる台地上に建設され、台地に食い込む谷地の一部を利用した濠に四面を囲まれた、いわゆる「総構え」の構造を持っていました。濠は現在では埋め立てられ、日の出町の交差点から南へ進みワッツの東をかすめて岩槻駅に至り、西から南へカーブを描きながら児童センター入口交差点へと進む道路などに「大構」と呼ばれた濠の痕跡を認めることができます。江戸期は岩槻藩の城下町として、また日光御成道の宿場町として都市基盤を確立しました。市街地を縦断する国道122号がかつての日光御成道で、藩政期より岩槻の目抜き通りであったようです。現在でも現代的な町並みが続く中心街であり、その中に古い町屋も残されていて、地域の中心的な通りとしての歴史を感じさせていました。町の中心である市宿町(現在の本町付近)は六と一のつく日に開かれる六斉市が開かれて、地域の商業中心地として賑わいを見せていたようです。
駅前から続く道は近代以降に建設された新道のようで、岩槻駅入口交差点から一筋北の交差点から南東へ分岐するルートが道路としてはより古いようです(越ヶ谷道)。その道路を南東に進み最初の角を北東へ、図書館の方に進みますと、藩校の建物としては埼玉県内で唯一現存している「岩槻藩校遷喬館(せんこうかん)」に到着します(埼玉県史跡)。1799(寛政11)年に岩槻藩の学者児玉南柯(こだまなんか)が創立した家塾が藩校へと発展したものであるとのことです。茅葺の屋根が美しい旧藩校が面する通りには、「裏小路」と書かれた看板が設置され(地域にお住まいの皆様の手によるものであるようです)、昔の武家屋敷の残るエリアであることを伝えていました。閑静な住宅街の中に、立派なファサードの薬医門を構える旧家が散見されました。門の端には大きい松の木も植えられて、板塀が続く景観は武家地としての往時をしのばせます。岩槻城下は街道筋の町場と、城の近傍を固める武家地とが区分されていて、武家地は上述の裏小路のほか、諏訪小路などの街路名で呼称されていたようです。武家地と町場との接点や主要道路が大構を越える場所には木戸が設けられ、「口」と呼ばれていました。裏小路の突き当たり、城へ進む大手筋と町場との交点にあたるこの場所は「渋江口」と呼ばれていました。 路地から住宅地の中へ付けられた小路を進みますと、小高い塚の上に建てられた鐘楼が、見事に黄色に色づいたイチョウの大木の下、穏やかな表情を見せていました。岩槻城下のシンボルとして時を告げていた「時の鐘」です。1671(寛文11)年、時の城主阿部正春の命により鋳造され、城下と町場の中間である渋江口に設置されました。静かな住宅地の間に、在りし日の城下町の残像を濃厚に放つ鐘楼が立ち、鮮やかな黄葉のイチョウの木の下でいきいきと屹立する様子は、岩槻が城下町として並々ならぬ風格を備えていたことを存分に感じさせました。ほんとうにすてきな風景であったように思います。渋江交差点から南東へ伸びる街路(旧渋江小路)へ戻り、裏小路を通り過ぎて最初の角を北東へ、かつての大手門へ続いていた旧広小路を進みます。旧大手門の表示のある場所から東は一段低い谷間のようになっていて、そこが岩槻城を囲む内濠であったことを物語っていました。緑と水に溢れる岩槻城址公園は旧岩槻城の東、新曲輪と呼ばれた一帯に展開しています。明治に入って廃城となった城から払い下げられるなどして移築され、その後再び城址公園に再置された黒門や裏門も穏やかに佇んでいます。市民会館いわつきや岩槻城址公民館などの施設のほか、野球場やテニスコートなどが設置され、市民の憩いの場となっているようでした。
岩槻から南へ田んぼの只中を行く 中世から藩政期までは沼に囲まれていたかつての岩槻城址を後にして、諏訪小路の名前の由来となった諏訪神社を一瞥しながら、南へ進みます。一帯は侍屋敷の立ち並んだエリアで、穏やかな住宅街の中にも生垣のある一角もあって、歴史のある住宅地域としてのたたずまいを見せています。住吉神社あたりから南は「大構」の外側、武家地への入口の一つであった「諏訪小路口」から出た町場が形成されていたエリアです。六斉市も開かれた富士宿町と呼ばれたこの町人地は、岩槻城下九町の一つに数えられました。町の名前のもととなった富士浅間神社まで至りますと、旧城下町の範囲の南端となり、元荒川に沿った集落と畑とが点在する地域へと次第に移り変わっていきます。冬場を迎えて白菜やねぎ、ホウレンソウなどが青々と育っており、農村的な景観が元荒川のゆったりとした流れに沿って、実にのびやかに展開していきます。 大野島水管橋で川を越え、水田が広がる一帯を進み、武蔵第六天神社へ。鳥居前の一帯は川魚料理屋が集まるちょっとした「飲食店街」が形成されていまして、神社が参詣者を多く集め、元荒川や付近の桜並木の風光もあいまって、伝統的な遊興地として栄えてきた地域の歩みを想起させます。周辺一帯は元荒川と綾瀬川との間に形成された広大な低地で、水田と集落とが連接するたおやかな風景が続いていきます。茅葺屋根の住宅も残されていて、近世以降江戸近郊の農村地域として過ごしてきた地域の履歴が濃厚に刻まれています。岩槻から続く台地の縁を回る水路に沿って進み綾瀬川を渡りますと埼玉スタジアム2002が目の前に見えてきます。周辺ではイオン浦和美園ショッピングセンターの開業により都市化が加速している印象で、区画整理が進行中のだだっ広い敷地と、サッカー観戦客目当ての駐車場とがサッカー場を取り巻いて、茫漠とした雰囲気を感じました。埼玉高速鉄道の車両基地近くは農村集落を基盤とする古い家並も残っていて、神社の社殿の中には埃をかぶった表彰状が見え、それは1946(昭和21)年に当時の農事管理組合に対し、県知事より米の増産に寄与し他の模範となる旨の感謝状であるようでした。長らく農業を従として過ごしてきた地域がここ数十年で劇的に変貌してきたことを、その汚れた額縁は如実に象徴しているように思えました。
2005(平成17)年4月1日にさいたま市に編入される前は、城下町を基礎とした「岩槻市」として県南部の主要都市のひとつであった岩槻は、その都市基盤と表情はそのままに、穏やかな近郊住宅都市としてそこにありました。現さいたま市内にあって、近世の城下町の姿を色濃く残す市街地の風情は大宮や浦和の中心部にも存在しないかけがえのない歴史資産であるといえるでしょう。そして何より岩槻区南部から緑区にかけての田園地帯で目にした風景は江戸の外縁部における農村地帯のテイストを鮮烈に記録した、こちらも貴重な文化的景観であるように思えます。現代の巨大都市東京が放つすさまじいまでの都市化を受けてもなお認められる地域の歴史的な姿は、地域が永く積み重ねてきた時間の慣性がいかに重いものであるかを語りかけているかのようでした。
「武蔵浦和駅から北へ」へ続きます。 |