Japan Regional Explorerトップ > 地域文・東北地方 > シリーズ・クローズアップ仙台・目次
←#7ページへ | #9ページへ→ | ||||||||||||||
#8 八幡町を歩く 〜伝統と現代とが息づく門前町〜 仙台二高と宮城県美術館とが接する交差点を北上すると、澱橋(よどみばし)に達します。澱橋の名の由来は、蛇行する広瀬川の急流がこの橋付近でおおきな澱みをつくっていることにあります。橋自体は特にこった意匠などはなくどちらかというと地味な橋なのですが、青葉山方面の緑と、市街地を背景とした広瀬川の渓谷美とが、よく眺められるいいスポットだとは思っております。さて、この橋をわたると、左側の住居表示が角五郎(つのごろう、一〜二丁目)という、ちょっとユニークな名称となります。この住居表示は旧町名「角五郎丁」を踏襲したものです。名称の感覚から推量されるかと思いますが、この町名はこの地域に「角五郎」という田夫がいて、牛越橋付近の広瀬川の渡場で渡守をして人気があったことから名づけられたといわれているのだそうです。現在は広瀬川に面した市街地が主にのる面とは一段低い河岸段丘上に展開する閑静な住宅街で、川内に隣接する土地柄から、学生も多いと聞きます。また、付近には仙台一女高、尚絅女学院中・高、聖ドミニコ学院小・高と、女子校が多く立地しています。
澱橋の北詰を過ぎて、さらに北上すると、道は途端に急勾配になります。尚絅女学院の西からこの坂を上っていくと、広瀬川から深い谷間が八幡方向に切れ込んでおり、その坂を埋めるようにしてこの道がつけられていることが分かります。この谷は「へくり沢(「巴谷」とも呼称されます)」と呼ばれていまして、かつては現在の住居表示で言えば広瀬町から八幡一丁目、同二丁目、国見二丁目方向に深い谷間を形成する峡谷でした。今でこそ北四番丁(国道48号線)がそのまま八幡町に直結していますが、昭和初期まで北四番丁はこのへくり沢でとぎれておりまして、明治期に先に作られた土橋によって八幡町とつながっていた北三番丁が八幡町への主要なルートでした。市電も北四番丁(国道48号線)の八幡町延伸後に八幡町まで達しています。そんなへくり沢を駆け上がる澱橋から北上するこのルートも、1682年にこの谷間の岩を掘削し、土を埋めて開設されたもので、「切通(きりとおし)」と呼んでいます。仙台市の市街地が数段の河岸段丘上に立地し、広瀬川の下刻作用が著しい事例の一端が垣間見られる地形なのではないかとも思います。
その反面、八幡町は戦災をあまり受けなかったこともあって、八幡町は多くの文化財や古い町なみ、ゆたかな自然環境の残る、藩政期の歴史の息づかいが感じられる穏やかな雰囲気が色濃い地域でもあり、この地域の魅力をより強いものにしているように思います。作並や山形県最上地方へ抜ける街道筋の町場としても、古くから栄えた町です。八幡町の地名の由来となっているのが、八幡四丁目の大崎八幡宮。上町段丘面より一段高い台原段丘面上に鎮座する八幡様へは、長い石段を上がっていきます。社殿(国宝)は彫刻があでやかな、桃山式の豪華な建築で、権現式の神社建築では最古のものとも言われているようです。東に隣接する別当寺の龍宝寺。本尊の釈迦如来像は、国指定重要文化財に指定されています。大崎八幡宮はその名が示すとおり、大崎氏が遠田郡八幡町(現・田尻町)に祀ったものを大崎地方を領有することとなった伊達政宗がその居城岩出山に移し、さらに仙台開府とともに、仙台に移されたものです。
※上に写真でご紹介した天賞酒造は、2003年暮れに、現在の八幡町の工場の操業を止め、宮城県川崎町に移転する方針を発表しました。八幡町の都市景観に少なからぬ情緒を醸していた同所ゆえに、気がかりなニュースではあります。 |
Copyright(C) YSK(Y.Takada) 2003 Ryomo Region,JAPAN