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シリーズ・クローズアップ仙台
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#104 松陵から鶴が丘へ 〜郊外の丘陵地、ニュータウンの現在〜 現在の泉区の地図を俯瞰しますと、区の中央部を東西に貫流する七北田川に沿った低地は、泉中央エリアを除けば水田や昔ながらの集落、段丘崖の林などが残る一方、それらを取り囲む丘陵地はその大半が住宅団地として開発されていることが見て取れます。それらは高度経済成長期の初頭、1960年代後半より造成が始められ、仙台市に接する地域から徐々にその範囲を北上させ、北郊の富谷市や大和町へと続く一大郊外ベドタウンエリアが現出しました。山の寺洞雲寺の自然豊かな境内から崖状に上った先に広がる向陽台は、1965(昭和40)年に建設が始められた、初期の団地ということになります。丘陵上を整地して完成した住宅地からは、屋根の向こうに太白山の特徴的な三角錐の姿も認めることができました。
向陽台からは、山の寺として住居表示される南側の地区へと進んだ後、要害川の支流が切れ込む谷筋へと降りる階段を下り、県道56号を経て永和台団地へと上る信号を右折します。急勾配の道路を上りきった先にはロータリーがあり、それをさらに直進し、松陵ニュータウンへと至りました。松陵(しょうりょう)の名称は、この付近の大字名(松森)に由来していると思われます。松陵ニュータウンは1982(昭和57)年に兼住宅供給公社が建設した、この近隣では比較的新しい部類の団地です。 団地のほぼ真ん中を南北に貫くメイン通りは、県道35号・免許センター前交差点へと連接し、南向きの丘陵を整然と区画整理した団地は、自家用車にも依存する利便性にも配慮した構造としているのではないかとも思われました。団地内の街路樹には松が植栽されていまして、背後の丘陵の木々が落葉している様と好対照を見せていました。かつては団地内に松陵小学校が所在していましたが、児童数の減少に伴い、以前に児童の急増によって団地の西側に分校した旧松陵西小学校と統合し、現在は泉松陵小学校となっています。
団地中央のスーパーマーケットの前を過ぎて、郵便局前の信号のある交差点を東へ進み、隣接する鶴が丘ニュータウンへと歩を進めます。鶴が丘二丁目緑地のある部分は谷地となっていて、その凹地を取り囲むように団地内の市道を歩きました。鶴が丘二丁目あたりの宅地はその低地が開発されたもので、その北側の丘陵地を切り開いた地域と連続する一方、地区内には丘陵を一部残している部分もあって、より森に近いような印象を持ちました。松森小学校の西側の市道を進み、鶴が丘二丁目の宅地を右手に見ながら緩やかに下る道ばたを辿ります。 地域の鎮守である熊野神社を訪ねつつ、その東側、丘陵の南を東西に続く町並みを歩きました。この道筋は岩切から七北田へとつながる古い街道筋であったようで、丘陵上にあった杉山神社近くから北へ続くが中央通りは、この町が仙台藩の城下町として建設された当初から、町割りの際の東西方向の基軸として計画された通りでした。仙台城の大手門から東へ、一直線に町を横断し、石巻方面への街道筋へと連接していました。城下町中心松森城に対応した、計画的な町場が存在してたことが、現地の案内表示によって説明されていました。「鶴が丘」の団地の名前は、この松森城の別名「鶴ヶ城」によるものであることが推察されました。
中世の山城の城下に存立した歴史ある街村をその礎に持つ穏やかな集落内を歩き、現代の住宅団地たる鶴が丘団地入口の交差点へ至り、泉中央駅行きのバスを待ちました。眼前には七北田川に沿った低地に開かれた広大な水田が広がり、清掃工場の煙突越しに宮城野区鶴ヶ谷あたりの丘陵上の団地を遠望しました。泉中央駅に到着してからは北仙台駅で地下鉄を降り、再開発へ向けて工事が進む農学部跡地を一瞥しながら、光のページェントの点灯を待つ定禅寺通方面へと急ぎました。
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