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#13 仙台市街地を歩く(後) 〜大町と東一番丁、仙台の一大繁華街〜 大町交差点は、現在でこそ、西公園通と青葉通とが交差する交差点として機能しておりますが、青葉通は戦後の都市計画によって作られた歴史の浅い道路でして、大橋で広瀬川を渡った城下の東西の幹線道路「大町」は、現在の「中央通」に相当します。手許に仙台市街地の地図をお持ちの方は、ご確認いただければ一目瞭然であると思います。大橋〜中央通のラインが直線的につながっているのに対し、青葉通は大町交差点に東南東方向から曲がって接続している様子が見て取れますよね。青葉通と中央通(大町)との接点には、「御譜代町」と鐘楼が建てられており、この道のかつての隆盛を伝えています。 「御譜代町(ごふだいまち)」とは、この地域に割り出された、大町、肴町、立町、元柳町が、伊達家に従い、米沢から岩出山、仙台と至るまで移り住んできた商家が営んだ町であることを意味しています。それだけ、伊達家との関わりが深く、多くの特権を与えられていたこれらの町は、このメインストリート周辺に依拠し、仙台城下町の繁栄を支えたのでした。しかし、現在の大町を歩いても、東一番丁(一番町通)以西のエリアにおいては、一部の区画を除いて、その面影を想起するものはほとんどないのが実状です。多くは、市街地に流入する駐車需要を当てこんだ駐車場や、中層のアパート、オフィスビルなどになっており、また一部には空き地も認められるほどでした。立町や肴町方面まで確認することができませんでしたが、少なくとも大町周辺は、戦後の幹線道路を中心とした都市化の中で相対的に取り残された、「都市のはざま」的なエリアであるように目に映りました。
芭蕉の辻を過ぎ、一番町に至ると、大町は「中央通」として、アーケード化された、近代的な商店街へと変貌を遂げます。ここで、大町からひとまず離れ、現代における仙台の繁華街の1つである、「一番町通」に目を移しましょう。一番町通は幾度となく言及してまいりましたが、正式には「東一番丁」と呼びます。アーケード化され、また住居表示として「一番町」が設定されるにつれて、「一番町通」という呼び名が公称的にも市民権を得ておりますので、以降は「一番町通」と呼ぶことといたします。
「サンモール一番町」は、中央通以南の一番町通にあたる商店街ですが、前述した2つの商店街と比べますと、やや落ち着いた雰囲気の場所です。人通りも心持ち少ないように感じられます。サンモール一番町のもう1つの顔は、特色ある「横丁」の存在です。「文化横丁」や「壱弐参横丁」といった、庶民的な店舗が軒を連ねるコミュニティが、生き生きと存在しているのです。今風の繁華街として大きな変貌を遂げた一番町の中にあっても、サンモール一番町には昔からの「東一番丁」の雰囲気が濃厚に残っている地域なのかな、と感じます。そう、昔からの商店街が、そのままアーケードの屋根をかぶせられたような、そんな感覚です。駐車場やビルの谷間になりながらも、「野中神社」のお社も佇んでいます。
「ハピナ名掛丁」を東へさらに進むと、駅前通に至り、再開発ビル「アエル」の麓に再び到達します。名掛丁は、アエルのすぐ南を東へ伸びていくのですが、それをすぱっと遮断しているのが、言うまでもない、東北線の鉄路です。東西の通行ができるように、一応地下通路が設けられているのですが、あまりに薄暗く、町の影のような場所となっているので、夜中に一人で通過するのには、少々勇気がいるように思われます。そして、その先にある町は、先にご紹介した、二十人町、鉄砲町、ということになるわけです。城下随一のメインストリートから、陸前浜街道へと接続していた、かつての幹線道路は、鉄路の形成によって、現在の区画整理という運命を招来する道を歩み始めたといえるのかもしれませんね。 |
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