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#14 長町界隈(前) 〜河原町から長町へ、城下と在郷の接点〜 仙台城下町は、広瀬川のほとりに広がることから命名された河原町で果てます。大町と奥州街道とが交差する芭蕉の辻を中心として建設された仙台城下町は、時代を経るごとに拡大し、奥州街道筋の河原町も寛永末(1644)年頃までには城下町の一部となったようです。これは、伊達政宗が晩年を過ごした、若林城方面への城下町の拡張と、長町宿の成長を受けた都市化を受けてのものでした。河原町は、奥州街道が広瀬川を渡る地点であり、また城下と在郷との境界の街でもありました。当地の豪商小西家の門前には、丁切根(仙台地方では、「ちょうぎんね」と呼んだ)の木戸があり、夜間は門を閉ざしていたのだそうです。江戸方面に出立する者は、いよいよ仙台城下を後にして長い旅路に出る、という感慨をもって、広瀬川を渡河したのでしょうか。 2004年1月15日、時折雪が舞っていた前夜から打って変わって快晴(ただし風はかなり強い)となったこの日、河原町の町並みを感じながら広瀬川を渡り、太白区の中心市街地の1つとして成長を見せる長町界隈を歩きました。 地下鉄河原町駅を出ますと、国道4号線に面して屹立する高層マンション「ツインタワー広瀬川・春圃」のツインビルが目に飛び込んできます。23階と21階からなるこのツインビルは、大手ディベロッパーの手によるものではなく、地主主導で建設されたのだそうです。そのため、テナントに入る商店は、地元河原町に立地する商店と業種が重複しないような配慮がなされているそうです。穀町から鉤の手を経て南材木町へ入った奥州街道は、国道4号線に一端交わりますが、このツインタワーのたもとで直角に曲がって東方向に続きます。この一帯が河原町で、現在でも、マンションが並ぶ中に蔵造りの建物が点在していまして、往時を偲ぶことができます。この通りを東へ進むと、伊達政宗の晩年の居所若林城跡、現在の宮城刑務所へと至ります。奥州街道は程なく南へ折れて、広瀬橋へと向かいます。広瀬橋から若林方面に歩き、新幹線と東北線のガードをくぐると、右手に旅立稲荷神社が鎮座します。京都伏見稲荷神社から勧請したとされるこのお社は、伊達家が参勤交代などで江戸上下の折に、道中の安全を祈願したのだそうです。お社のすぐ西には、広瀬川の河川敷が広がります。現在では、対岸の長町にも多くの高層建築物が建ち、副都心的な色彩さえ備わってきたためか、町はずれに来たという印象はだいぶ薄れてきたようにも思いますが、広瀬川の上に広がる大空は、実に広々としていて、かつての「城下町はここで果てる」という雰囲気を今に伝えているようにも思いました。
広瀬橋は、日本で最初に建設された鉄筋コンクリート橋でした。1909(明治42)年に、それまでの永町(長町)橋にかわって架橋されたもので、橋はその後、1936(昭和11年)に市電長町線専用の橋を加え、1959(昭和34)年に道路・市電供用の橋として三度架け替えられて、現在に至っています(市電は1976年に廃止されました)。現在の広瀬橋は、旧橋をイメージしたという街灯と8箇所のバルコニーを設置した美しいデザインにリニューアルされていまして、広瀬川の清流や大年寺山の丘陵地、両岸の市街地にマッチしたデザインになっています。寒風吹きすさぶこの日は、広瀬川の川面もいっそうクリアで、空の青とえもいわれぬコントラストを見せていましたが、冬型の気圧配置が卓越していたため、上流方向に望めるであろう、泉ヶ岳をはじめとした奥羽山脈の山々は白い雲に隠れていました。広瀬橋の南詰には、1668(寛文8)年に架けられた旧永町橋の礎石が残されています。その礎石の横には、橋姫明神社の小さな祠があります。永町橋仮設の際に、通りかかった巡礼の女を人柱にしたという言い伝えがあり、その供養のために祀られたもののようなのです。国道4号線と広瀬河畔通といった交通量の多い道路に挟まれ目立たない場所に建つ礎石とお社が、藩政時代の面影と悲しい歴史と今に伝えています。 |
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