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シリーズ・クローズアップ仙台

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#17 国分町から堤町まで 〜旧奥州街道、新旧の街並み〜


仙台城下町を南北に貫通していた奥州街道については、これまで幾度か触れてまいりました。奥州街道が広瀬川を渡河した北岸の河原町から、仙台城下の範域となります。ここより北へ、南材木町、穀町、南鍛冶町、荒町、田町、上染師町、北目町、柳町、南町と経て、仙台城下町の中枢、大町の芭蕉の辻へ至ります。奥州街道は更に国分町、二日町、北鍛冶町、通町を経て、城下の北端の堤町という町々を繋ぎました。当初は奥州街道沿いのすべての町を総称して「通町」と呼んだのですが、後に「通町」は青葉神社下の地域に限定されるようになったのだそうです。今回は、芭蕉の辻から北、国分町以北の奥州街道の街並みを歩いてみようと思います。

芭蕉の辻は、仙台城下町の経済の中心として大店の集積する商業地域でしたが、現在はビルの谷間の小規模な交差点といった雰囲気で、日本銀行仙台支店をはじめ、周辺に金融機関が立地していることだけが、かつての隆盛を伝えているかのようです。金融街を過ぎると、そこには東北随一の歓楽街、国分町が広がります。現在では「こくぶんちょう」と呼ばれますが、城下町時代の呼称は「こくぶんまち」。伊達政宗の仙台入府以前より、この地域を所領としていた国分氏に従った人々により成立した町であったため、国分町と名づけられました。豪商が多く軒を連ねたという街並みは、飲食店街となった現在からは想像も及びませんね。



国分町通、金融保険業の店舗が並ぶ
(青葉区国分町一丁目、2003.9.13撮影)


国分町の景観
(青葉区国分町一丁目、2003.9.13撮影)

歓楽街を過ぎ、緑のみずみずしい定禅寺通を横断しますと、二日町(ふつかまち)へと至ります。二のつく日に市が立ったことが町名の由来と聞きます。旅籠屋を中心に、肴屋、塩屋、紙屋などが建ち並び、穀物を商う権利を有していた商業の町でした。現在では、市役所北側に広がる雑居ビルやマンション等に充填された、中低層の街並みが展開する地域となっています。市役所北側を東西に通過する道路が、北一番丁です。これより北に、北二番丁、北三番丁、・・・、と順次城下町が拡張されていきました。現在でも地下鉄やバス停の名を残す北四番丁は、国道48号線の大通りとなっています。勾当台通から北四番丁の角を西へ進むルートは、旧仙台市電のルートとして戦前から拡幅が行われていた幹線道路の1つです。勾当台通との交差点の北東隅には味の素のビルがあり、北四番丁といえば、掲げられていた「味の素」の看板、と回想される方も多いのではないでしょうか。

北四番丁の大通りを横断すると、街並みはさらに丸みを帯びて、閑静な住宅街のテイストが色濃くなってきます。住居表示は木町通二丁目や柏木一丁目となっていますが、北四番丁の1つ南の路地である北三番丁から、北七番丁までの奥州街道沿いの旧町名は北鍛冶町(きたかじまち)です。これまでの奥州街道沿線が商業町だったのに対し、ここは町名のとおりの鍛冶職人の町でした。かつて鍛冶職人の町は現在の定禅寺通と晩翠通の交差点の南方、国分町二丁目と立町とにまたがる地域にありましたが、その区画に侍屋敷を充当するために奥州街道沿いに南北に分けられ、北鍛冶町、南鍛冶町が割り出されました(南鍛冶町は若林区に現存する町名です。ちなみに、もともとの鍛冶町は、元鍛冶町と呼ばれるようになりました)。鍛冶職人に限らず、多様な職人の集る町であったようです。

北七番丁の細い路地を越えると、通町(とおりちょう)です。北鍛冶町と同じく職人が多く置かれた町で、左官屋や瓦職人、畳職人などが腕を振るっていました。現在でも、畳店が営業しているようでした。味噌店や仙台駄菓子の老舗なども往時の面影を残しながら佇みます。戦後に建築されたマンションや住宅などに混じりながら、板張り・瓦屋根の重厚な趣の、昔懐かしい雰囲気を感じさせる建物もあちこちに残っています。これらの建物の瓦も、この町の瓦屋が焼いたものなのだそうです。



二日町の景観
(青葉区二日町、2004.5.29撮影)


旧北鍛冶町の景観
(青葉区柏木一丁目、2004.5.29撮影)


通町の景観、青葉神社の杜
(青葉区通町二丁目、2004.5.29撮影)


堤町・佐大ギャラリーの上り窯
(青葉区堤町一丁目、2004.5.29撮影)

奥州街道は、青葉神社下で丘陵に突き当たり、その麓を北東方向へ進んでいきます。JR仙山線の踏切を渡ったあたりから、堤町(つつみまち)と呼ばれる地域となります。ここは、堤焼や堤人形で知られる、焼物を生産する職人の暮らす町でした。町の名は、地域を東西に流れる梅田川を堰き止めた大きな堤があったことに因むものです。
現在の堤町は静かな住宅街となり、近年は北仙台駅周辺の再開発により数棟の高層マンションも立地するエリアとなっていまして、焼き物を焼く上り窯の煙がしずかに上がっていたかつての雰囲気を感じさせる事物も少なくなっているようです。焼物を焼く人、成形する人、土を練る人と、住民の多くが焼き物とかかわりを持ってきたという堤町の姿を今に伝えているのが、佐大商店・堤焼佐大ギャラリーが守りつづけている上り窯です。1960年代までは使われていたという上り窯は、ギャラリーに並べられている数々の鉢や瓶とともに、堤町の往時を伝えています。

堤町は、仙台城下の北の入口にあたります。ここには、城下に入る人々から税金を徴収する御仲下改所(おすあいどころ)がありました。佐大商店の北隣に茅葺の番所が長年残存していたのですが、2001(平成13)年夏、老朽化のため解体されました。堤町の歴史を伝える最後のともし火となった佐大ギャラリーの上り窯の間近にも、都市計画道路が迫っています。


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