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シリーズ・クローズアップ仙台
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#34 南光台から旭ヶ丘へ 〜地下鉄駅を軸に展開する地域〜 高度経済成長期を通じて一貫して成長を続けてきた仙台市は、その急増する人口によって市街地周辺の多くの丘陵地域を住宅団地へと変貌させてきたことは指摘してまいりました。これからご紹介する旭ヶ丘・南光台地区は、そうした宅地化された地域の中でも比較的早くより造成が始められたエリアとなります。手元に明治後期から最近にかけての、仙台市周辺の地形図をセットにした図集があります。これらのうち、終戦直後の1946(昭和21)年頃の地形図と、その約20年後の1964(昭和39)年頃の地形図とを比較しますと、当該地域の急激な変化が理解できます。1946年頃の地形図を見ますと、仙台市中心部から市街地が連続いているのはせいぜい北六番丁(東北大農学部南の東西の道路)までであり、それより北は主要な街道であった旧陸羽街道(国道4号線、後の県道仙台泉線)や宮町通などの沿線に街村的に市街地がつながっていくのみであり、その線上の市街地も国鉄(現在のJR)仙山線の鉄路を越える頃までには収束しています。旧陸羽街道沿いは、北仙台駅周辺の堤町の町場を過ぎますと、一帯がさしたる集落も無い丘陵地帯であり、比較的規模の大きい市街地にめぐり合うためには、七北田(泉区)まで進まなければなりませんでした。後に南光台や旭ヶ丘が造成されていくことになる宮町方向も、現在の東北高校付近より北はやはり一面の丘陵地と谷間の堤(溜池)が展開するエリアとなっています。 1964年の地形図に目を転じますと、仙台市北東部の丘陵地域が急激に宅地化されていくようすがはっきりと見て取れるようになります。国道4号線となった旧陸羽街道沿いは仙山線より北の地域でも小規模な宅地化が進行しており、台原や荒巻神明町付近は既に大部分が住宅地域となっているようです。そして、旭ヶ丘地区や南光台地区も一体的な住宅団地として開発が進捗していまして、仙台市と旧泉町とにまたがったかなり規模の大きい住宅用の平坦地が形成されていることが見て取れます。仙台市街地との主要な軸線は宮町から北へ続く、旭ヶ丘地区を南北に貫く街路でして、本稿でこれから取り上げる、鶴ヶ谷団地から旭ヶ丘地区へと至る東西方向の軸線は見て取ることができません。このことから、南光台地区及び旭ヶ丘地区は当初は宮町から続くセクターの延長上に位置づけられた団地であり、古くから重要な道路であったと思われる陸羽街道方面へのアクセスを前提としたものではなかったともいえそうです。なお、図中には「南光台」の地名表記は無く、相当する部分には「天ヶ丘(読み方は不明です)」の表示があることも興味深い内容です。現在でも南光台一丁目に「天ヶ沢団地」と呼ばれる一角があることや、天ヶ沢不動尊などの史跡もあることから、「天ヶ沢」の地名より、この周辺の団地を「天ヶ丘」と呼んだ時期があったのかもしれません。ちなみに、現地名である「南光台」もこのあたりを流れていた沢筋および小字名でもあった「南光沢」の地名が由来となっていると考えられます。
鶴ヶ谷団地北の団地は戸建て住宅の並ぶ落ち着いた街区となっていまして、鶴ヶ谷五丁目と鶴ヶ谷北一・二丁目との間を続く幹線道路は道幅はさほど広くないものの、中央に街路樹が植栽された分離帯を有し、かつ両側にやはり街路樹が並ぶ歩道を擁する構成となっていまして、町に穏やかな佇まいを与える道として整えられていました。これは鶴ヶ谷団地内では一貫して採用されている街路構造のようで、先に通ってきた順に紹介しますと、鶴ヶ谷団地の南を東西に貫く道路はイチョウ並木、中央の南北道路は松並木、東西の道路はケヤキ並木、そしてこの北端の東西道路も樹種は分からなかったものの、豊かな緑の葉の街路樹が植えられていまして、道路ごとに豊かな緑を楽しむことができるようになっています。また、鶴ヶ谷団地内には春になるとハクモクレンや桜、コブシの花がたいへんに美しい街路もあるようで、通称「木蓮ロード」は地域のちょっとした名所ともなっているようです。 鶴ヶ谷四丁目交差点を過ぎますと、先にご紹介した自由ヶ丘交差点から北へ続くヒマラヤシーダーの並木道が南から合流し、その並木が西へ、南光台地域へと続いていきます。南光台団地は高燥な丘陵地の上に穏やかに展開しています。鶴ヶ谷団地より造成が早かったことも影響か、南光台の街路には中央の分離帯はなく、単純な片側一車線の道路となります。引き続き仙台市街地の図集を確認しますと、1977(昭和52)年頃の地形図では、鶴ヶ谷団地北の街路はまだ完成しておらず、ヒマラヤシーダーが植栽された、南光台地区を東と北から取り巻く街路が最初に完成したことが読み取れます。また、現在の旭ヶ丘駅に近い部分もまた道路が完成していないことも特筆されます。この東西の道路は南光台三丁目付近において街路網を斜めに横断している部分があり、この部分において不規則なルートを取っていることは、この街路が当初より想定されていたものではなく、後の都市計画による産物であることを暗に示しているようにも感じられます。南光台は早い造成にもかかわらず、南光台南、南光台東などの諸地域が時間差を置いて面的な拡大をみた影響も手伝ってか、あまり町の時間経過を感じさせない活気のようなものを感じさせるエリアです。とはいえ、やはり開発済みの団地の中に幹線道路を後に取り付けたため、自家用車の日常的な利用が恒常化している現在、果たして多くなった自動車の通行量は団地をゆったりと歩きたい歩行者にとってはやや不安定な要素となっているかもしれません。かつてはもっと多く植えられていたヒマラヤシーダーの木々も数がかなり減ってしまっているように見えたのも、あるいはこの自家用車の通過数の増加と関係しているのかもしれないなとも考えました。せっかく商店や飲食店、金融機関などの日常的な商業関連機能が充実している街路であるのに、少々もったいない環境下になっているとも言えなくも無い状況にあるようでした。
南光台地域を軽やかに進む東西のこの道は、やがて区境(かつての市境)を越えて、青葉区旭ヶ丘地区へと緩やかにつながっていきます。先に触れた南光台三丁目地区における幹線道路が街区を横切るような形になっているのは、この間でかつて自治体の所属が違っていたことと関わりがあるのでしょう。旭ヶ丘地区は、仙台市内において最初に住居表示を実施した地区です。住所として「旭ヶ丘一〜四丁目」が住居表示として設定されたのは、1965(昭和)40年のことで、それまでは通称では「旭ヶ丘団地」などと呼ばれていても、公式な住所表記は「仙台市原町小田原字○○(○○には小字名が入る)」であったものと思われます。このことは、この一帯がいかに人家が少なく、人里離れた森の広がる丘陵地域をその前身としていることを彷彿とさせます。その後、1987(昭和62)年に地下鉄旭ヶ丘駅が開業したことにより、このエリアは大きくその利便性を上昇させていきます。バスターミナルを発着するバス路線も多いことから、この付近における仙台市中心部方面へ向かう交通の結節点としての役割も担うようになります。多くを住宅用地として土地利用の態様を一変させたこのエリアにあって、木々に覆われたかつての丘陵の姿をわずかにとどめている台原森林公園の森を高台から望むこのエリアは、その自然環境との近接性もあり、また仙台市青少年文化センターや科学館などの公共施設の立地もあいまって、穏やかな大都市近郊の住宅地域の趣を呈している地域となっているようにも感じます。中高層のマンションも一部に進出しているのも特徴的です。 その一方で、やはり仙台市郊外地域における大規模団地の草分け的な位置にあることから、古くから開発されてきたエリアの中には、ほぼ半世紀を経過して、通過する車両の多さの割には町並みがやや古めかしくなり、商業集積の面でも斜陽化を感じさせる場所も少なくないような気もいたします。泉区などのより自然豊かな大規模団地や、近年ますます存在感を増す都心部における超高層マンションなど、魅力的な居住空間が多く供給される現在、これらの地域がいかに永続的な地域コミュニティとしての再生産性を組み込み、快適な住宅地域としての輝きを維持していくかという問題は、難しいですが、しっかりと取り組んでいかなければならない事象であるように思われます。 地下鉄旭ヶ丘駅は、地下にありながらプラットホームから緑あふれる台原森林公園のたおやかな緑を見通すことができる構造になっており、旭ヶ丘のちょっとした名物となっています。これは地下鉄線が丘陵地を刻む沢の斜面を利用し、開口部を設けているためで、森林公園側から駅を眺めますと煉瓦上の地下鉄駅の壁がさながら地上駅の外観のように整えられていまして、近代的な構造物と緑に溢れるみずみずしい自然景観とをたくみに融合させています。緑の多くを失った住宅地域と都心部とを連結する要の位置にあって、鮮やかな緑の丘陵に抱かれる旭ヶ丘の特性の原点に立ち返ること。このことがひいては南光台から鶴ヶ谷へとつながる現在の都市交通軸のあり方を考える上で、大切なことになっていくのかもしれません。 |
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