Japan Regional Explorerトップ > 地域文・東北地方 > シリーズ・クローズアップ仙台・目次

シリーズ・クローズアップ仙台

#32ページへ #34ページへ

#33 小松島から鶴ヶ谷へ 〜仙台市東北部の丘陵地に広がる住宅地域〜


 仙台市は東北地方の経済的な中心都市として高度経済成長期を通じて大きく成長してきました。東北地方を営業エリアとする事業所の拠点が集積し、それらのいわゆる「支店経済」のもと中枢性・中心性を強化させ、急速な人口増加をみたわけです。元来丘陵地と平地とが交わる広瀬川の河岸段丘上に市街地を展開させてきた仙台は、その溢れる人口を受け入れる住宅地域が必ずしも十分でなく、また市街地東に展開する広大な沖積平野も大部分が低湿な農地であり、それらを宅地などとして開発することはたいへん困難でした。そうした人口の受け皿となったのが、市街地を取り囲むように展開していた丘陵地域でした。法規制的に農地よりも開発が容易であった丘陵地域は土木技術の向上に伴い恰好の宅地開発用地となり、多くの大規模な開発が進められていきました。これにより「杜の都・仙台」を象徴する事物のひとつであった丘陵の緑の多くが失われる結果となったことは以前にお話ししたことがあるかと思います。前回の宮町から東照宮までの段において散策を続けてきた私は、引き続き隣接する小松島地区から南光台地区の南をかすめながら北東方向へ向かい、大規模な公共住宅・公団住宅が立ち並ぶ鶴ヶ谷地区へと歩を進めていきます。このエリアは西の旭ヶ丘地区を合わせて、1950年代中葉以降、仙台都市圏において最も早く宅地開発が進められた丘陵地域のひとつです。

 東照宮の参道を東へ緩やかに進むバス通りは小松島小学校のあたりから徐々に道幅が狭くなり、上りの勾配がついてくるようになります。道の両側も次第になだらかな崖のような地形へと変化し、この道路自体が丘陵地域に刻まれた谷筋を上る形になっていることが分かります。このあたりは以前上杉の項でご紹介した旧仙台鉄道(軽便鉄道)のルートをおおよそ重なります(実際のルートは小松島小学校のすぐ西の街路などとして一部残されるなど厳密には異なります)。北仙台駅と中新田駅(現存の陸羽東線・西古川駅付近)とを結んでいた仙台鉄道は経営不振と台風被害などから1960年に全廃されました(ただし大部分はこれより早く1950年代には運行休止状態を経て部分廃止されていたようです)。現在では一部の街路などに痕跡をとどめるのみとなったこの路線の廃止の直後より、この地域の住宅地域化が始まっていくこととなります。小松島郵便局付近から小松島沼が穏やかな水辺をつくる小松島公園のあたりまでは小規模ながらも商店が集積する最寄品を扱う商店街となっていまして、これより北の旭ヶ丘や南光台といった大規模団地が形成される前、草創期における宅地化がどのようなものであったかを示しているかのようにも感じられます。前項宮町の段でご紹介した東北高校も、1929(昭和4)年に小松島沼ほとりの現在の位置に移転しています。移転当時の住所表記は「仙台市原町小田原南光沢」であったそうで、町場であった原町や宮町の東に隣接する小田原地区とも離れた位置にあるこの場所が、当初は人家もまばらな、緑に溢れる丘陵地域の内にあったことを暗示させます。

小松島二丁目付近

小松島二丁目付近の小商店街
(青葉区小松島二丁目付近、2006.8.5撮影)
小松島沼

小松島沼の景観
(青葉区小松島四丁目、2006.8.5撮影)
南光台

南光台南部、不連続的な街路(右方向が自由ヶ丘方面)
(泉区南光台二/一丁目、2006.8.5撮影)
自由ヶ丘付近

自由ヶ丘西側より西方を望む
(宮城野区自由ヶ丘、2006.8.5撮影)

 旧仙台鉄道の鉄路跡はその後は西へ向かい、地下鉄線や県道仙台泉線方面へとつながっていきます。小松島の小規模な商店街エリアを抜け、台原から続く片側二車線の都市計画道路方面へ丘陵地の斜面を駆け上がる市道を進みます。このあたりは全体として緩やかな起伏の丘陵地帯が住宅地として開かれた地域となっておりまして、木々に覆われていたかつての景観の名残はほとんど見られません。来た道を振り返りますと、JR仙山線に沿って東西に連なり、東照宮の杜ともつながっている段丘崖の緑や台原森林公園の大きな緑地を除き、目立った緑地帯を見つけることはできません。ただ、南光台の南の方角に目を転じますと、付近には先に紹介した小松島沼のほか、新堤沼、与兵衛沼、大堤沼といった、谷筋を堰き止めて溜池状にした沼沢が存在しています。穏やかな緑地帯を形成する与兵衛沼、大堤沼周辺は仙台市が選定した杜の都緑の名所100選にもリストアップされており、風致地区としてみずみずしい緑地景観が保全されています。

 歩いている南光台一丁目と同二丁目との境界となっている街路は右も左も下り勾配となっており、ちょっとした尾根筋であるようです。南光台・旭ヶ丘地域の宅地開発が開始されたのは1956(昭和31)年で、実に半世紀前のことです。概して街路がそれほど広くなく、また隣接街区との連続性が十分に配慮されていない部分も認められ、初期の住宅地開発であることを感じさせます。住宅地域として既に十分な時間を経過してきたため古い建物は更新されたり、アパートや中層のマンションなどに建て替えられている物件がある一方、更地となって放置されている区画も認められます。南光台二丁目バス停付近の三叉路を自由が丘方面へ向かい、一段と勾配のきついカーブを上りきりますと、一気に視界が開けます。台原森林公園の森の帯に高層マンション「パークタワー台原」が屹立している方角の手前はおびただしい数の住宅の屋根によって埋め尽くされています。高層マンションのシルエットの向こうには、仙台市街地西北郊のなだらかな稜線がたなびいています。この方面も中山地区など宅地開発の著しいエリアとなっておりまして、やはり住宅によって占められた景観の中、独特の雰囲気を醸す仙台大観音の姿も遠望できました。

自由ヶ丘交差点

自由ヶ丘交差点、東方向
(泉区南光台南三丁目、2006.8.5撮影)
鶴ヶ谷の景観

鶴ヶ谷団地入口バス停付近、北方向
(宮城野区鶴ヶ谷二丁目、2006.8.5撮影)

鶴ヶ谷ショッピングプラザ

鶴ヶ谷団地・タウンセンター(「地区センター」と呼ばれる)
(宮城野区鶴ヶ谷二丁目、2006.8.5撮影)
鶴ヶ谷中央公園

鶴ヶ谷中央公園
(宮城野区鶴ヶ谷六丁目、2006.8.5撮影)

 自由が丘団地と南光台地域との境界は宮城野区と泉区の境界ともなっています。穏やかな住宅地域を東へ進み辿り着いた自由が丘交差点は、北から続くヒマラヤシーダーの並木道(南光台南三丁目と鶴ヶ谷四丁目の境界となっている片側一車線の道路)と、鶴ヶ谷団地の南を東西に貫くイチョウ並木の道路とが交わります。小松島から南光台南部にかけての団地が戦後宅地開発の萌芽的なテイストを残している(細い街路・街区ごとに不連続な区画・道路構成)のに対しまして、仙台市が開発した鶴ヶ谷団地は時代がやや下って、1960年代半ば(昭和40年代)以降に造成が進められました。当時は東北地方最大の宅地開発事業とされ、仙台都市圏における市街地化手法の一大画期となった鶴ヶ谷団地は、次第に寄せてきていたモータリゼーションの波を受け街区の境界は広い幅員の幹線道路を配し、団地の中央に公共施設やショッピングモールを複合的に配置した「タウンセンター」を設け、またテラスハウス風の住居が並ぶ地区や戸建ての住宅が並ぶ地区、中高層のマンションが林立する地区など街区ごとに地域の属性を区分するなど、その妥当性については言及いたしませんが、一定の計画性を持った開発が実施されているのも特徴的です。

 丘陵地の中央部は谷間に切れ込む「大堤」の水辺と丘陵地の緑とを生かした「鶴ヶ谷中央公園」とし、その南西の位置にタウンセンターを配置し、各街区を連続的に割り出しています。また、これまでの団地では異なる開発主体同士の団地間でしばしば道路が不連続となるといった弊害が出ていた点については、現在の地下鉄旭ヶ丘駅前から東へ、南光台団地の中央部を東西へ連結する街路をそのまま鶴ヶ谷団地の北縁に連接させ、鶴ヶ谷団地の南北を貫く幹線道路と結び付けるなどの工夫も見られます。この南北道路は都市計画道路「東仙台・泉線」の一部をなし、2007年度中には団地を駆け下り、国道4号線バイパスまでの区間が整備される見込みとなっているようです。仙台における宅地開発はその後も続き、宅地開発は郊外化が顕著となるとともに、ライフスタイルの多様化やモータリゼーションの普及に伴う生活環境の保全の観点から、幹線道路と住宅地区とを広大な緑地帯等で大きく分離させるスタイルへと移行していきます(その最も典型的な例が、先にご紹介した「泉パークタウン」です)。近年では都心付近における超高層マンションの相次ぐ建設が始まって、都心回帰の動きもまた見られるようになっています。

 話がややそれてしまいましたね・・・。鶴ヶ谷団地へは学生時代に地理学的・地誌学的な興味から一度訪れたことがありまして、その当時と大きな変化の無い大規模団地の姿を認めることができました。自由が丘交差点から鶴ヶ谷2丁目交差点(鶴ヶ谷団地入口バス停のある交差点)、タウンセンターから仙台オープン病院前と進んで、南光台・旭ヶ丘方面へと向かうルートを辿りました。土曜日の昼下がり、タウンセンター内のショッピングセンターには多くの買物客が訪れていまして、比較的活気あるエリアを形成しているように思いました。今回小松島から鶴ヶ谷にかけて散策したエリアは、戦後における仙台の宅地開発史を草創期から発展期までを跡付ける地域性を持っていました。宅地開発にまつわる宿命的な事象の1つに団地住民や建築物がいっせいに高齢化するというものがあり、それへの対策をいかに行っていくかという問題は避けては通れない道となります。今後の動向を注目していくべき地域であるよるといえるでしょう。


このページのトップへ

 #32ページへ           #34ページへ

目次のページに戻る


Copyright(C) YSK(Y.Takada) 2006 Ryomo Region,JAPAN