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シリーズ・クローズアップ仙台
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#35 台原を歩く 〜“住宅丘陵”に残された、杜の都の断片〜 台原は、地下鉄駅名に採用されるようになってから、「だいのはら」という読み方がいっそう一般的になってきたような気がいたします。住所表記として「台原」の文字が用いられるので現在ではこの書き方が一般的となっているものの、少し前まではバス停の「台原入口」も「台の原入口」と表記していまして、このひらがなの「の」の字を入れた書き方もまだ一般的なのではないかと思います。台原地区は、現在の住所表記になるまではその大部分が「大字荒巻」の一部でありました。この「荒巻」は現在青葉山一帯や市街地の西北郊の住宅地域化されていないエリアに環状に分布しているとおり、かつては仙台市街地を西から北へ取り囲むような形をした面積の大きい村でした。このことは、台原地区を含むこれら仙台市街地の周辺地域が緑に覆われた丘陵地であり、相対的に人口の少ないエリアであったことがしのばれます。 台原森林公園は、そんな古き時代の仙台郊外に大きく広がっていた、緑豊かな丘陵地域を残すわずかな断片です。コナラを中心とした二次林とアカマツ・スギの人工林によって構成される丘陵部分の緑と、周辺部における都市公園部分とを合わせた公園の面積は、約60ヘクタール。大規模な宅地化の流れの中にあって豊かな緑は保全していくべきだとする風潮の中、1973(昭和48)年に開園しました。丘陵地の谷に沿うように穿たれた市営地下鉄の鉄路は、旭ヶ丘駅の構内周辺で森林公園側に開口部をつくって、特徴的な景観を形づくっています。駅前は街路樹がふんだんに植栽された、現代的な都市公園として整えられていまして、駅前を軽く散策するだけでも快い気分に浸れそうです。水道橋のようなアーチ状の柱が連続したデザインの駅施設も、緑に満ち足りた景観とマッチしています。1周3キロメートルという遊歩道の、旭ヶ丘駅から台原駅入口付近までを辿りました。穏やかな木々に包まれながら歩く散策道は、ほんとうにすがすがしくて、四季折々、さまざまな色彩や空気を楽しむことができそうです。コースはサイクリングロードともなっていまして、自転車の乗り入れもできます。身近な場所にこそ、このようなくつろげる場所、みずみずしい空間を整備し、すてきな時間をすごしたい。このようなごくありふれた感情でさえ塞ぎ尽くしてしまった宅地開発の嵐の中残された貴重な緑地景観は、その光と影とを、良くも悪くもシンボライズさせる存在です。
地下鉄台原駅方面出口から公園を後にし、台原地区へと歩を進めます。自由ヶ丘からの眺めほどではないものの、中山方面へ視界が利く場所があり、仙台大観音などの姿も見えます。台原森林公園と並んで希少な緑となっている水の森公園付近の稜線を除けば、たなびく山の端はあまねく人工的なスカイラインになっているようにさえ感じられます。台原駅は都市計画道路「川内南小泉線」の下に位置しています。片側二車線道路としてゆったりとした道幅を持つこの路線は、計画としては東北大学などがある川内地区から八幡地区を縦断し、そこから環状に国見地区、北山地区を縫ってこの台原地区へと至る青写真が描かれているようです。県道仙台泉線より東については、現在工事が進められている南光台南端部から枡江地区までの区間が連結しますと、幸町から萩野町、大和町、遠見塚などを経て仙台バイパスまでつながっている既存の市道を介し、ひとつの環状道路となる恰好です。 都市計画道路を横断し、緩やかな下り道を進みます。付近は穏やかな住宅地です。坂道の彼方には、携帯電話がそのまま立っているような印象の「NTTドコモ東北ビル」が屹立しているのが遠望できます。私は学生時代北仙台駅に程近い堤町で暮らしましたので、台原の印象は労災病院周辺の、狭い街路に住宅が近接する、ともすれば計画性がまだ十分に備わっていなかった高度成長期初期の住宅地域の姿でした。その認識からしますと、台原四丁目から五丁目にかけての一帯はけっこうゆったりとした印象で、旭ヶ丘から南下する街路も片側一車線の中央線のある比較的広めの道幅が確保されています。付近のバス停「瞑想の松」は、ここから東、小松島公園に近接する東北薬科大学構内にある松の名前に由来します。明治の文豪高山樗牛(ちょぎゅう)が旧制二高で学んでいた時、かなわぬ恋を嘆き、台原の老松の下で瞑想に耽ったことから名付けられたと言われ、その樹齢600年以上のクロマツは仙台市の保存樹木にも指定されているのだそうです(市ホームページ「杜の都緑の名所100選・小松島公園周辺」より一部推敲の上引用)。緑豊かな住宅地の景観は、「瞑想の松」というどこか物静かな語感とともに、杉木立の穏やかな台地の往時を彷彿とさせます。
「台原」とは、この付近の公式な地名ではなく、堤町と東照宮との間のこの地域が古い時代の河岸段丘面を反映した平坦面であったことから呼ばれた通称名です。藩政期には、仙台藩四代藩主伊達綱村がここに杉を植えさせたことから、「杉山台」の異称もありました。元禄年代に陶器師上村万右衛門が来仙した折、台原付近の土が陶器づくりに適していることを発見し窯場を作り杉山焼(現在の堤焼のルーツ)を創造したと伝えられているのだそうです。前項にて紹介した1946(昭和21)年頃の地形図には、台原付近に「窯業研究所」の文字も見えます。台原中学校・小学校から宮城障害者職業能力開発校へと至る細長い四角形状のエリアは明治期から第二次大戦中まで置かれていた射撃場の名残のようです。なお、この南に位置していた県警警察学校は名取市へ移転し、跡地はみやぎ生協台原店の店舗となったほか、住宅地域として開発が行われたようです。台原駅付近にあった警察学校射撃場も同時に移転し、跡地はやはりマンションへと変貌しているようです。 旧警察学校、現在は広々とした駐車場を備えた店舗敷地となった場所の南から、台原入口方向へ西北西に緩やかに進む道路は、台原における古くからのメイン通りで、昔ながらの商店や飲食店などの立地も認められます。東北労災病院が立地することから、花屋や調剤薬局なども並びます。労災病院の開設は調べてみますと意外に古く、1954(昭和29)年とのことです。旭ヶ丘や南光台などの団地の造成が始まる数年前にあたり、既に台原周辺エリアでは小規模な宅地化が進行していた時期にあたっていたのかもしれません。高度経済成長以降、時代とともに多様な変化を見せながらも一貫して市街地に近接した穏やかな住宅地域として存立してきた台原エリアのなかでも、どこかせせこましい雰囲気を残すこの町並みに台原らしさを感じます。町並みの南には、梅田川へ向かって豊かな緑地帯が続きます。台原段丘面の縁を東西に連なる緑は東照宮の杜とつながりながら、市街地周辺部における快い緑地景観を演出しています。 |
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