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シリーズ・クローズアップ仙台
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#82 2012年秋、仙台市沿岸を歩く 〜津波被害の現実を見る〜 2012年10月7日、仙台を訪れました。未明までの雨も止み、穏やかな秋の青空が雲間から見え始めた午前10時過ぎ、宮城野区のJR陸前高砂駅を出発しました。東北の晩秋はどこか間近の冬の冷たさを内包したような静かさを伴っているように感じられます。この日もそんな淡い日差しの下、駅前の市街地を南下し、東北薬科大学病院の前を通って、七北田川の河畔に到達しました。ここから川に沿って、河口の蒲生地区を目指します。 ※以降、東日本大震災の記録としてとどめるため、津波の被害の大きかった地域についての記述、撮影した写真の掲載を行います。
陸前高砂駅前の新しい住宅地を左手に進みますと、県道23号に並走する仙台東部道路の高架が見えてきます。高砂中学校の校舎を一瞥しながら、右手に七北田川、左手に白鳥団地を見て堤防上を歩きました。仙台東部道路から東は、津波の直接的な影響のあった地域です。白鳥団地は見た目には大きな被災の状況は見て取れず、通常どおりの生活が行われているようでした。とはいえ、白鳥団地一帯でも最大で床上までの浸水は発生しており、生活再建にはかなりの努力があったものと推察されます。堤防上の中野新町バス停は仙台駅方面から陸前高砂駅前を経由し、高砂や白鳥を通過してきたバス路線が七北田川の堤防上に出て達する最初のバス停です。訪問時は震災の影響で休止中でした(路線はそのまま堤防上を進み、海岸近くの蒲生までを結んでいましたが、ここも震災以降休止が続き、6号公園住宅前までの路線として再編された後、中野新町から蒲生までの部分は、2015年12月の地下鉄東西線開通に伴う路線改編で正式に廃止されています)。 壊滅的な被害を受けた沿岸部から比較しますと軽微な被災で済んだ白鳥団地を過ぎて、仙台市沿岸部を南北に縦貫する主要道路である県道10号塩釜亘理線に到達します。同県道は仙台市の復興計画では防波堤としての機能を持たせることになっており、宮城野区蒲生から若林区藤塚の名取川左岸までの約10キロメートルの区間を対象に、約6メートル盛土を施した上でその上に道路を供用する予定になっています。そして、同県道より海岸側の地域は建築基準法上の「災害危険区域」に指定され、住宅の建築ができなくなります。同県道を境として、津波の直接的な被害が徐々に目の前に現れるようになりました。川と反対方向に捻じ曲げられたガードレール、陥没した歩道などが津波の勢いのすさまじさをまざまざと見せつけます。津波を受けて倒壊しなかった住宅もまばらに残されていますが、1階部分の建具は大部分が破壊されていました。空き地部分は倒壊した建物などが撤去された跡地と思わる部分も少なくなく、基礎の部分だけが残され、一面が雑草に覆われてしまっている一角もたくさん認められました。
上記した現況は海岸に近づくにつれてさらに凄惨さを増していきます。津波来襲時に多くの人々が屋上に避難した旧中野小学校校舎は1階部分はめちゃめちゃになっていて、脱衣所やフェンスなどがあったであろうプールはむき出しとなり、周囲が一面の草原に覆われた格好となっていました。東側の駐車場の一角には慰霊塔が営まれており、多くの献花がなされていました。その慰霊塔の背後は、海岸にわずかに残された防風林の松がむなしく空に寄り添うのみで、家々の基礎と道路だけが在りし日の蒲生地区の存在を伝えていました。草原となった地域を確認しながら貞山堀を渡り、干潟方面へ。津波で流出した高砂神社は小規模ながら社殿が再建されていました。日本一低い山として知られる日和山も往時の面影はありませんでした。津波の影響で一時期姿を消した蒲生干潟は、砂浜が再生されるとともに回復したようでした。しかし、生態系は大きな変容を余儀なくされているようで、現在は緩やかに生物が戻りつつあって、今後の推移が注目されています。 県道10号に戻り、復興工事関連の大型車両が行きかう中を南へ進みました。県道沿線の集落も一部に津波の影響を受けた痕跡が認めらて、広大な水田地帯も荒れ果てた惨状を秋空の下にさらしていました。西方には仙台都心の高層建築物群がはっきりと遠望できます。やがて到着した若林区荒浜は・・・、もはやそのありさまは筆舌に尽くしがたいほどのものでした。海岸へ向かう県道が、旧荒浜小学校の校舎を残して荒野同然となった地区の中を伸びています。ここがかつて家々が立ち並ぶ大規模な集落であったとは、震災前の姿を知っている私にさえまったく想像ができないほどでした。無残に多くがなぎ倒され、一部が弱々しく残る防風林の松を越えて、海岸へ出てみました。ここにも慰霊碑が建立されており、生花や折鶴などが手向けられていました。荒浜には震災前に何度か来たことがありますが、その日と同じようにのびやかな海岸線と広大な太平洋とが眼前に広がっていました。海岸の防潮堤上から以前は見えなかったはずの内陸の都心方面、奥羽山脈の山容までが見通せたことに、やるせなさを禁じ得ませんでした。
仙台東部道路の内側に戻り、荒井地区あたりまで来ると、色づいた穂波が鮮やかな田園風景が戻り、少しほっとした気持ちになりました。江戸時代初めに仙台城下町を切り開いた伊達政宗は、こうした自然災害常習地としての仙台平野の地勢を考慮してか、城下町を沿岸には造らず、敢えて内陸の河岸段丘上に建設しました。沖積低地上の集落も、自然堤防や浜堤上などの周辺よりわずかに標高の高い土地(微高地)に作られた場所が多いようです。荒浜を含む七郷地域の新田開発は、仙台平野一帯に大きな津波災害をもたらした慶長三陸地震(1611(慶長16)年)から13年後であったということで、荒浜を含む仙台平野沿岸部が大規模な津波被害を受けたのはその時以来でありました。地震被害からの復興とともに、津波による被災の伝承も重要なことであるように思われます。被災地のあちこちで可憐に咲く花々を見つけました。荒れた大地に輝きを見せる色とりどりの花と、復興へ向かう地域の姿とが重なりました。 |
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