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シリーズ・クローズアップ仙台
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#83 中田から四郎丸へ 〜宅地化の進む田園地帯を歩く〜 2012年12月23日、この年の10月以来で仙台を再訪しました。この日の仙台は冬晴れのこの時期らしい気候でした。気温も日中で5〜6度であったようで、ほぼ例年通りの、寒い冬の一日でした。JR南仙台駅から東へ歩き始め、この日のフィールドワークを開始しました。南仙台駅は簡素な駅舎ながらも1日およそ9,700人の利用者があります。仙台駅まで3駅という利便性から、周辺地域の市街化に伴って利用が急増しています。1963(昭和38)年に、立地地名から採られた「陸前中田駅」から現駅名に改称しています。旧中田村が仙台市に合併しこの駅を含む地域が仙台市内となったのは1941(昭和16)年のことで、約20年後の改名でした。高度経済成長により仙台都市圏での郊外化が本格化するのと軌を一にしています。
南仙台駅前から東へ、中田地区を貫通する都市計画道路南仙台駅前四郎丸線を進みますと、程なくして国道4号と交差します。富沢から中田への項でも触れましたが、中田の市街地は国道4号の前身である奥州街道の宿場町を礎にしています。昭和初期や高度経済成長期前までの地形図を見ても、国道4号沿線にこの宿場町を背景に成立した街村的な町場の存在が見て取れます。1964(昭和39)年にはこの旧街道筋の東側に仙台バイパスが完成し、従来の市街地が後背地である田園地帯へも拡大していきました。国道4号を越え、仙台バイパスを歩道橋で渡っていきますと、周囲は旧宿場町由来の市街地から、新興住宅地と農地や旧来から立地していたと思われる住宅とが混じりあうエリアへと移り変わっていくのが実感できます。東中田地区で住居表示が実施されたのは2001(平成13)年で、電柱には旧住所表記が残っているものも認められました。この地域の市街化は現在進行形で進んでいます。 中田中央公園を過ぎ、都市計画道路の終点付近まで進んで、東中田と袋原の間あたりの住宅地域を確認しました。袋原地区も比較的最近に住居表示が実施されています(2003(平成15)年)。もともとあった農村地域の街路にスプロール的に宅地化が進み、それらに直線的な都市計画道路や区画整理された街区が入り込んで、複雑な街区形成が進んでいる様子が見て取れました。
いったん仙台バイパスまで戻り、中田地区の東方の四郎丸(しろうまる)地区へ向かうバス通りを歩きます。四郎丸という珍しい響きの地名は、平安時代の武将で奥州藤原氏の三代藤原秀衡の家臣名取四郎がこの地に居館を構えその城郭が四郎丸館(善徳寺付近にあったと比定されています)と呼ばれたことに因むとされています。バイパスに近いあたりは住宅地然としていた風景も、東へ向かうにつれて住宅地の中に畑が点在するようになります。バス通りは九ケ村堀と呼ばれる用水路に沿って進みます。屋敷林(イグネ)を伴った旧家と畑地、それに市営住宅や新興住宅地などが連接していて、中田地区ほどではありませんが、四郎丸地区においても、農村地域が徐々に宅地化によって変容してきた様子が垣間見られました。都市近郊の蔬菜産地と住宅地域とが並立しています。 集落の東の外れに近づくにつれて、家々の間にまとまった面積の水田が広がるようになります。市バスの終点である四郎丸バス停にはバスの回転場が設けられており、ここが集落の東端であることを実感させました。ここを出発するバスは主に地下鉄長町南駅方面へ向けて発着しています。さらに東へ進みますと、周囲は一面の水田となり、前方に仙台東部道路の高架が見通せました。中田や袋原、四郎丸の集落は周辺より標高が高い自然堤防上に立地し、それよりも低い沖積低地は主に水田として利用されていることが理解できる風景です。
仙台東部道路をくぐるあたりから、仙台市域から名取市域へと入ります。周囲の水田には車両の細かい轍のような模様が残り、測量に使用するポールのようなものが設置されていました。傍らには「ほ場の復旧・除塩を行っています」との看板が設置されていました。その表示は、東日本大震災の時、名取川に沿って遡上した津波はこの付近まで浸水させていたことを示すものです。これより、同震災で甚大な被害の出た、名取川河口の閖上地区へと歩を進めます。 |
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