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#3 飯田市街地を歩く 〜「丘の上」の城下町をめぐる〜 2013年6月、長野県南部の飯田市街地周辺を散策しました。天竜川流域のいわゆる「伊那谷」と呼ばれる盆地と周辺の山間部、そして天竜川の水源である諏訪湖周辺地域を合わせて、長野県内での地域区分では「南信地方」と呼ばれる地域において、最大の人口規模を持つ中心都市です。JR飯田駅前から市街地散策をスタートさせました。
市街地は天竜川右岸の河岸段丘上に展開しています。伊那谷は天竜川が形成する河岸段丘を同川の支流が深く侵食することによってできる急な崖状の地形(田切地形)が顕著に発達していることで知られていますが、飯田市街地も南の松川、市街地中央を貫く谷川、そして北側の野底(のそこ)川の谷によって段丘面が分断される形となっています。そのうち、谷川と松川によって南北を画された東西に細長い岬のような地形上に飯田城址があり、藩政期はここに飯田藩庁が置かれていました。飯田藩の城下町として都市基盤を整えた飯田市街地は碁盤目状に区画構成がなされていることが特徴です。そして、飯田市街地の成り立ちを跡付けるうえで欠かせないもう一つのキーワードは「飯田大火」です。1947(昭和22)年4月20日に発生した大火により市街地の大半は焦土と化しました。現在の市街地には火災に対する類焼抑止に対する思想が随所に認められます。 まず、JR飯田駅から南へ、飯田病院南の柏心寺西側には飯田城の外堀跡とされる石積が残ります。前述のとおり、北から東、南にかけては天然の要害によって守られる飯田城は、西側の防御を固める必要があったわけで、城下町を包摂するように北方から西方にかけて、全長2,300メートルほどにも及ぶ空堀が惣堀として造られました。惣堀のすぐ内側には寺院が配置され、城下町の防禦陣としていまして、柏心寺から北へ長源寺、JR飯田駅東の峯高寺と真光寺、そこから東へ正念寺、さらに北へ来迎院、龍翔寺、善勝寺、西教寺、専照寺、正永寺、黄梅院と至るラインがおおよその惣堀が設けられた場所にあたるようです。長源寺の北には武家屋敷福島家の建物が残り、また飯田最古の道標も残っていて、城下町時代の面影を残しています。
碁盤目状に整然とした区画の市街地を飯田城の方角へと進みます。主要道路は道幅が広く、歩道もゆったりと確保されている印象です。アーケード状に店舗から庇を出している建物も多くて、この町の高い中心性を感じさせます。やがて、飯田市街地のシンボルロードともなっている、りんご並木の通りへと到達します。大火後の復興にあたり、防火帯として広幅員道路を設けることが企図されました。市街地を南北に貫通するこの通りには当時の飯田東中学校の生徒の提案でりんごの木が植栽され、現在でも同校の生徒によって手入れがなされているといいます。その他の主要道路が広めの道幅を確保しているのも、この大火の教訓からのものです。道路の中央にリンゴの木が植えられて、それらの間を縫うように水路が取り付けられ、伊那谷の豊かな自然にはぐくまれた飯田の町を象徴する景観が形づくられています。東側の銀座商店街はアーケードが取り付けられた密度の高い繁華街で、「トップヒルズ」と呼ばれる再開発ビルもあって現代的な街並みが整えられていました。 銀座通りを歩きながら南端の水の手通りから段丘下の風景を眺望し、銀座三・四丁目交差点に戻って飯田城址へと進みます。城内は西から三の丸、出丸、桜丸、二の丸、本丸と並び、本丸の東には山伏丸という内郭も存在していました。現在でもそれらを画する空堀が残ります。城は別名長姫(おさひめ)城とも呼ばれます。現在本丸にはその別名を称する長姫神社が鎮座します。明治を迎えて城郭の遺構は棄却され、一部の門は移築され現存するものもあるようです。桜丸の跡地にあたる県合同庁舎敷地には唯一その正門が当初の場所に残されて、赤門と呼ばれ親しまれています。
飯田城址の北を刻む谷川へと下り、その谷筋に整備された中央公園の東端からは「くつわ小路」と呼ばれる小路があって、昔ながらの家並が懐かしい雰囲気を醸しています。周辺には旧柳田家(民俗学者柳田國男が養嗣子として入籍した旧飯田藩士)の門が残るほか、武家屋敷の土塀や門、洋風建築である下伊那教育会館などが立ち並んでいまして、城下町時代から近代にかけての飯田の街並みが保存されるエリアとなっています。先に紹介した福島家付近とともに、大火の延焼から逃れた数少ない一帯にあたるようです。市街地をよく観察しますと、建物と建物の間に幅2メートルほどの路地が貫いているのを見つけることができます。これは裏界線(りかいせん)と呼ばれる防火道路で、隣接する者同士が1メートルの土地を供出して造られた飯田独自のものであるようです。大火の惨禍を二度と起こしてはならないという思いから発明されたこの路地は、場所ごとに独自の風情を見せていまして、市街地を特色あるものにしています。りんごの並木道に出てそうした裏界線の佇まいを確認し、三連蔵と呼ばれる蔵造りの建物を一瞥しながら飯田駅前に戻り、市街地の散策を終えました。 飯田からの帰路、「日本のチロル」とも呼ばれる遠山郷の集落・下栗の里に立ち寄りました。南アルプスに続く急な斜面にまさにへばりつくようにある里の風景は、山深い地域に多様な営みが存立する伊那谷の奥ゆかしさを表現しているようにも思えました。 |
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