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#4 長野盆地周辺の春を訪ねる 〜あんずの里と桜の名所を行く〜 2014年4月20日、長野盆地周辺の地域をめぐりました。この日は終始曇り空の一日で、時折薄日が差して青空が雲の隙間から顔をのぞかせるといったような陽気でした。標高が400メートルを超える長野盆地はちょうど桜が見頃を迎えていまして、随所に春らしいのびやかな風景を確認することができました。
最初に訪れた場所は、千曲市の倉科地区から森地区にかけての地域です。千曲川の右岸、北に向かって開ける扇状地上に展開する両地区は、あんずの栽培が盛んであることから「あんずの里」と呼ばれます。地区の最も南、扇状地の扇頂部付近に位置する「あんずの里窪山展望公園」からは、台地をいっぱいに埋める薄紅色のあんずの花がさながら谷あいにたなびく雲海のように望むことができました。天気が良ければ、遠く戸隠山や飯縄山あたりの山並みまで望むことができるようです。公園近くにもあんず畑が広がっていまして、ほのかに紅色に染まった白い花びらが枝いっぱいに花開いて、この季節にしか味わうことのできない、春の温かさとみずみずしさとを、目の前に観賞することができました。 この地があんずの名産地となった端緒は、伊予宇和島藩主・伊達宗利公の息女、豊姫が、第三代松代藩主・真田幸道公に輿入れの際に、故郷を懐かしみ持ち込んだ苗が原型とされます。あんずは水はけがよい扇状地での栽培に適していたことからやがて扇状地の傾斜地に盛んに作付されるようになり、長野県の生産量は日本一で、中でも千曲市は最も多くのあんずを出荷する一大産地となっています。「一目10万本」とも形容される千曲市のあんずは、鈍色の空の下でもこの上ないやさしさに溢れていまして、やはり満開となっていたソメイヨシノから主役の座を奪っていました。
あんずの里を訪れた後は、千曲川を渡り長野市篠ノ井地区の古刹光林寺へ。長野盆地のうち、千曲川と犀川とが合流する場所に程近い丘陵地に鎮座します。境内へ進む石段には満開のソメイヨシノが植えられてまさに花の門となり明るく行く先を照らしていまして、樹齢300年というシダレザクラが6本、やわらかな春風にその身をまかせていました。その目を奪うような美しさは、春のぬくもりが大地から桜色の噴水となっていっせいに湧き出しているかのようでした。 境内からは、東に開ける長野盆地、そして北陸新幹線の高架越しに長野市街地を遠望することができます。千曲川と齋川とが合流するこの地域は川中島と呼ばれます。武田信玄と上杉謙信とが一戦を交えた「川中島の戦い」で知られる場所です。光林寺はその戦いの中で武田信玄が陣を張ったともいわれているようです。名刹・善光寺の門前町として栄えた経緯から、長野盆地は「善光寺平」の名で県民に親しまれます。県域中心都市の経済圏として、そして果樹栽培地域として大きく発展した地域は、幾多の歴史を重ねながら、多くの人々にとってかけがえのない生活の舞台となり、眼前に輝かしく見通せました。付近一帯はりんご畑となっていまして、りんごの花も間もなく花を咲かせようとしていました。
光林寺からは犀川を越えて北側の犀川丘陵と呼ばれる山間部へと分け入り、緩傾斜地に小規模な集落や農地が点在する場所に根を下ろす「塩生(しょうぶ)のエドヒガン」を観に行きました。このあたりは、犀川を渡る小市の渡し(現在の小市橋辺りにあった渡船)を渡って、戸隠方面へ進む古道にあたっており、「巡礼桜」という別名もこの桜がそうした修験の霊場へ進む道筋にあたっていたためであると推定されているようです。やや桜色の濃いエドヒガンの一本桜は、徐々に春めく山並みのやわらかな色彩に呼応するように、花を開かせているように感じられました。樹高18.2メートル、目通り周囲7.3メートル、樹齢700年という古木です。足元には草花に埋もれるように地蔵尊が佇んでいまして、古くからの信仰の対象となっていたことを窺わせました。付近からは北アルプスの山々を見通すことができまして、薄曇りの空の下、うっすらと残雪を抱く山並みを認めることができました。 長野盆地周辺の山々の春は長かった冬を越えてもなお、どこか控えめに、切々と春の訪れを喜びかみしめているかのような風貌を呈しているように感じられました。各地で自然に囲まれた美しい花々を観察した後は、盆地の別称の名前にもなっている善光寺へと向かうこととしました。 |
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