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#5 善光寺界隈を歩く 〜門前町から近代都市となった地域〜 2014年4月20日、長野市中心部の北に位置する善光寺を訪れました。わが国でも屈指の参拝客が訪れる名刹として賑わう善光寺は、「牛に引かれて善光寺参り」、「一生に一度は善光寺参り」とも言われ、古来より多くの民衆の崇敬を集めてきました。
善光寺三鎮守の一つ、武井神社の近くに車を止めて、善光寺への参道へと歩を進めます。大門交差点から門前へ続く中央通りを北へ。沿道には善光寺本堂の柱に使用されているという所以からカツラの木が植栽されていまして、石灯籠や松の木などと共に、門前町らしい風情を形づくります。善光寺交差点からはいよいよ境内地へと入ります。参道は一変して、宿坊の堂宇が連続する風景へと移り変わります。通りに面した築地塀の内側から顔を出したソメイヨシノは満開となっていまして、浄域にみずみずしい風情を与えていました。ここから緩やかな上りとなっている参道を歩いていきます。 ここからの参道には本堂前まで長方形の敷石が規則正しく敷かれています。1707(宝永4)年に本堂が現在地へ移転竣工した後(もともとは後述の仲見世通りの中ほど西側の、江名地蔵尊が立つ場所に本堂はありました)、1714(正徳4)年に完成したものです。総数7,777枚と言い習わされるこの敷石は、西光寺住職単求及び江戸中橋上槙町(現・日本橋三丁目)の石屋大竹屋平兵衛の寄進により敷設されました。近世以前の大規模な敷石としては稀有であることから、史跡善光寺参道として市の史跡指定を受けています。仁王門から駒返り橋までの間は仲見世通りと呼ばれ、本堂の移転後店舗の常設が認められ、再び門前町らしい街並みを見ることができます。活気のある土産物店の立ち並ぶ先には、三門が堂々たる佇まいを見せています。
二層入母屋造の三門(国重要文化財)は、1750(寛延3)年に5年の歳月をかけて造営されました。そして、その山門の先には、春空に翼を広げるような結構の本堂(国宝)が、雄大な立ち姿を見せていました。撞木造という特殊な建築様式を持つ本堂は、南北に細長い構造で、南から外陣、内陣、内々陣と連結して、最奥部に秘仏の一光三尊阿弥陀如来像を安置する瑠璃壇があります。602(推古天皇10)年、信濃国司の従者として都に上った本田善光が、難波の堀江(現在の大阪市)でこの本尊を見つけて持ち帰り、最初は現在の飯田市にて祀られた後、642(皇極天皇元)年に現在地に遷座され(642年)、善光の名を採って善光寺と名付けられたというのが善光寺の由緒です(飯田市の最初の安置地には「元善光寺」が営まれています)。本堂下の瑠璃壇下へ通ずる暗い通路に入り、途中にある鍵に触れると極楽へ行けるという「お戒壇めぐり」で知られます。 善光寺参拝後は、北東にある城山公園へと進み、ソメイヨシノに溢れる春爛漫の風景を楽しみました。善光寺の北裏から北へ続く通り沿いにも桜並木があって、高台となる道路の途上からは、桜の海に浮かぶような善光寺の堂宇や、長野市街地の街並みとをたおやかに見通すことができました。信州の北野盆地の山裾に寺院が開かれ、多くの参詣客が訪れるとともに町場が発展し、現在では長野県の県域中心都市として、現代都市としても成長を遂げた地域の歴史を象徴するような風景でした。
善光寺界隈をめぐった後は、参道を南へ戻り、中央通りを進んでJR長野駅前方面を概観しました。善光寺門前へのアプローチである中央通り沿いは、寺院に近い一帯は低層部を瓦屋根で統一するなど、門前町としての情趣を感じさせる景観で整えられていました。1998(平成10)年の長野冬季オリンピック・パラリンピック大会の開催、そして2015年3月の北陸新幹線金沢延伸開業を経て、長野駅前は大きく様変わりし、現代都市・長野を代表する繁華街が形成されていました。訪れた2014年4月当時は駅舎の再整備が行われていたようで、その工事も新幹線延伸を前に完成し、リニューアルされているようです。広い宇宙にたなびき輝く星雲や恒星のように、雄大な大地の上で数々の地域が輝きを見せる信州において、長野市街地とその周辺は、そうした歴史や文化の多様性を最もよく体現している場所の一つではないかと、そう思います。 |
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