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#6 伊那谷から諏訪へ(前) 〜地域に根付く桜を訪ねる〜 長い沈黙の時を超えて、光がほとばしるように大地を覆い、生命が躍動を始める季節。春はそんな命のきらめきに溢れています。季節の循環の中で春は生きとし生けるもののすべてが次代へその命脈をつなげる黎明の時であり、古来農業を主な生業としてきた我が国の文化にあっても、大切な区切りとなる時節となってきました。2015年4月も半ばを過ぎ、南信州、伊那谷の山間の里にもようやく遅い春が訪れていました。幾重にも連なる峰々に抱かれた地域の春は、穏やかな色彩を花弁ににじませながら、やさしく大地を温めているかのようでした。
古来畿内と東国とを結ぶ大動脈のひとつであった東山道は、濃尾平野から山間に分け入り、神坂峠にて信濃国へと到達していました。現在では中央自動車道が恵那山トンネルで一気に抜けていますが、神坂峠はその急峻さ故に東山道における難所としてそこを通過する人々の前に立ちはだかっていました。平安時代の初期、布教のために訪れた最澄は、神坂峠の峻険さに驚き、美濃側と信州側にそれぞれ布施屋(無料の宿泊所)を、信州側に「広拯院(こうじょういん)」として、美濃側には「広済院(こうさいいん)」として、それぞれ設けたとされています。信州側の園原の里には、その広拯院に否定される月見堂が残されており、近年「信濃比叡」として整備が行われています。 広拯院近くの駐車場に車を止めて、万葉集にもその名がある歌枕としても知られる園原の里を歩きます。ソメイヨシノは満開目前で、さわやかな春空にその淡い桜色を透かせています。車道はつづら折りに山肌に寄り添うように続いていまして、交通の難所としての地勢を体現していました。道路沿いには棚田状に水田が点在し、集落の家々は堅牢に摘まれた石積みの上に整えられた平坦地に形成されています。伝教大師の石像が目を引く広拯院の境内を通り、たおやかな山並みに包まれるような、山間の村落を進んでいきます。路傍には土筆や菜の花が随所に春らしい姿を見せていまして、春の歓びを表現していました。歩くこと約20分、目指す「駒つなぎの桜」が目の前に現れました。
その桜は、数段に開かれた棚田の傍らに、その大きな枝をいっぱいに広げて、なめらかな春の光をそのまま詰め込んだような淡い花を咲かせて佇んでいました。周囲を包み込む山々の穏やかさそのままに屹立するその立ち姿は、地域に春の訪れを告げる灯火のようにも感じられます。駒つなぎの桜はエドヒガンで、その名は源義経が奥州に下向するときに、この木に馬をつないだとする伝承に基づいています。山々の間からは南アルプスと思われる雪を抱いた山嶺も遠望できまして、多くの山に抱かれながら、小盆地ごとに文化圏を形成し、それらが相互交流することにより存立してきた当地の歴史にも思いを巡らせました。 駒つなぎの桜を観賞した後、広拯院方面へ戻る道すがらに、行きは広拯院の境内を歩いたために確認していなかった月見堂を拝観しました。中世まで主要交通路として機能したこの地も、中山道が木曽谷経由で整備されてからは静かな山里の中に、かつての賑わいの残像と、多くの文人が憧憬を寄せた風趣とを今に伝えるのどかな場所へと変遷しました。駒つなぎの桜をはじめとした桜たちのみずみずしい色合いは、こうした地域の歴史を美しく、そして繊細に彩っているように感じられました。
園原の里の次に訪れた、阿智村清内路地区にある黒船桜は、樹高10メートルの枝垂れの一本桜で、すぐ側を流れる阿知川の渓谷を見下ろすように、その豊かな樹勢を見せていました。その名は黒船来襲の頃に植えられたためと言われます。渓流は春本番を迎えて一面に若葉色に染まっており、黒船桜の桜色はその上を覆うように美しさを加えていて、山深い地域の春をより艶やかなものへと昇華させていました。 |
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