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#17 高遠城址公園とその周辺 ~コヒカンザクラの美と城下町の記憶~ 2021年4月7日、山梨県富士吉田市での活動を終えた私は、中央道を西へと進み、長野県内に入り諏訪インターチェンジで降り、国道152号で高遠を目指しました。杖突峠を超えて伊那市側へ。杖立街道として古来より主要な交通路として機能していた国道沿いの御堂垣外(みどかいと)集落には、昔ながらの土蔵や町家の家並が残ります。往時のこのルートがいかに経済的に重要な道筋であったことが想像できます。
高遠の市街地へと入り、桜の名所としてあまりに著名な高遠城址公園へと向かいます。天竜川の支流・三峰川(みぶかわ)に北東から流れ込む藤沢川の合流点の河岸段丘上に位置する城へは、国道から南へ入る、急なヘアピンカーブの坂道を登っていきます。駐車場に無事駐車し、まさに満開となった桜に覆われる城内へ。藩政期には高遠藩の政庁として存立した城跡は、現在では公園として整備されて、この季節は内外から多くの観桜客が訪れる名所となっています。駐車場から城址へ入る階段を上り、堀跡にかかる桜雲橋を渡り、問屋門へ。この門は城下・本町の問屋役所にあった門を、戦後に城内へと移築したものであるそうです。城下町時代の貴重な遺構を背に、タカトオコヒカンザクラが美しい桜色を春空に重ねていました。 タカトオコヒカンザクラは、1875(明治8)年に高遠城跡が公園となった際、高遠藩の旧藩士が桜の馬場から移植したものがルーツとされます。樹齢約130年の古木20本を含めた約1,500本もの桜が城内に咲き誇ります。河岸段丘上の高台に本丸を築き、その周囲に堀割をめぐらせて多くの曲輪によって構成される高遠城は、城郭としては屈指の強靱さを誇っていました。本丸には新城藤原神社や太鼓櫓などの史跡があって、ここが確かに藩政期の城跡であることを実感します。崖上からは、眼下に高遠の市街地を見下ろし、彼方には木曾駒ケ岳などの中央アルプスの美しい山容を望むことができました。
私費で買い上げて公園とし寄付されたという法幢院曲輪へは、その寄付者の曾祖父で公共に尽力したと伝わる人物の俳号に因むという白兎橋を渡ります。曲輪間の堀割へは降りていける場所もあって、堀の下から見上げる桜の風景もまた格別です。桜雲橋近くの堀には池があって、桜の花びらが花筏となって、春空の下、穏やかな風趣を公園に与えていました。高遠閣は町民の集会や観光客の便に供するために1936(昭和11)年に完成した厚生施設です。登録有形文化財にもなっている入母屋造の建物は、高遠城址公園にあって目立つ存在として、同公園のシンボルともなっています。 城址公園を出て、東側の上り坂を登った先は、藩政期には武家地となっていた場所です。現在は住宅地となっていますが、敷地の周囲には石積みが多く残されていて、武家屋敷が多く存在していたであろう往時を偲ばせます。武家地のさらに東の山麓には、西龍寺をはじめとした名刹が多くあって、城下町の東縁を形成しています。寺院群にはそれぞれに桜の木が多く植えられていまいして、その桜越しに雪を頂いた中央アルプスの山々を望むことができました。
江戸大奥における綱紀粛正事件のために高遠藩に流された絵島のが幽閉された建物を復元した絵島囲み屋敷を見ながら、急崖を降りて段丘下の城下町のエリアへと歩を進めました。「ご城下通り」の垂れ幕が下がる街道筋には昔ながらの家並が残っていて、山中における藩庁と城下町とがどのような態様であったかを今に伝えています。321段の石段を上った先には、歴代の高遠藩主の崇敬も篤かった鉾持(ほこじ)神社。境内への参道は杉木立に覆われ、春の花々が路傍を彩っていました。高台にある境内の近くからは、桜で埋め尽くされた高遠城址公園越しに南アルプスの山々を望むことができまして、この小さな山の城下町に訪れた春の風景を象徴しているようでした。 |
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