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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#5 千鳥が淵から神楽坂へ 〜桜と穏やかな町並みを歩く〜(千代田区、新宿区) 2007年3月31日、東京の桜はまさに満開を迎えていました。朝一番の列車で地元を出発し到着した九段下は、まだ午前8時前の時間帯であったこともあって、まだそれほど多くの人出はありませんでした。九段下駅を出て、日本武道館を左手に見ながら、春爛漫の靖国通りを進みます。眼下の牛が淵周辺には水面を覆うようなソメイヨシノが見事な桜色を見せており、菜の花の黄色と絶妙なグラデイションを見せていました。千鳥が淵は、東京でも有数の桜の名所として知られます。お濠に垂れ下がるような桜は繊細な色彩によって溢れています。遠景の桜は水彩絵の具を落としたようなやわらかな桜色の波をつくれば、目の高さの桜の花の一輪一輪は透き通るようなみずみずしさを呈していまして、まだ朝早い冷んやりした空気の中で輝きを見せていました。 お濠西側の緑道に沿って、桜並木の下を歩きます。お堀を挟んだ反対側の土手にも桜がいっぱいに咲いています。満開になって日が浅い桜は力強さも兼ね備えているように感じられます。水面に映る桜もなめらかな印象です。約300本(400本としているサイトも散見されます)の桜のトンネルはまさに圧巻の一言です。遊歩道の南から堀端の桜を一望しますと、後方にはビル群が映りこんで、東京における桜の名所たる風景が展開します。時間が経つにつれて、桜見物の人の流れも徐々に増えてきました。緑道内は北から南への一方通行となっているため、九段下方面への復路は緑道の西を並行する車道の端を進みました。桜のトンネルの下を一歩外れた位置から眺めるのもまた違った趣があります。千鳥が淵は、一説にはお濠の形が千鳥が羽を広げた姿に似ていることからその名が付けられたともいわれているのだそうです。桜の時期だけでなく、四季折々に豊かな自然の色彩を楽しむことのできる千鳥が淵は、春の一時、極上のきらめきに満ち溢れていました。
靖国通りに戻った後、早稲田通りを北西へ向かいます。緩やかな上り坂の両側には、中高一貫校への移行が進む都立九段高校をはじめ、日本歯科大学や暁星中学・高等学校などの学校が立ち並び、閑静な文教地域としての落ち着いた佇まいとなっています。JR飯田橋駅が近づくにつれて町並みは雑居ビルや業務系ビルに充填されていきます。江戸城外濠にかかる牛込橋あたりまで来ますと、外濠に並び立つように連続する建築物群がより印象的に都市のアウトラインを形成しています。右手(東側)にそれらと外濠とに挟まれるようにJR飯田橋駅の入口があり、眼下には外濠の一部に敷設された中央線の鉄路が見えています。牛込橋南詰にある石垣は、江戸城の外郭にあった門のひとつ、牛込御門(牛込見附門)の跡です。門は敵の侵入を発見し防ぐために、2つの門を直角に配置した形式(枡形(ますがた)門)をとっており、敵を見つける目的から「見附(「見付け」の意)門」と呼ばれました。牛込見附は、1636(嘉永13)年に阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって普請されたものであるそうです。俗に「三十六見附」と呼ばれた見張りの置かれた門のひとつですね。牛込橋の欄干は城を模したような意匠が施されていまして、石垣とともに現代都市の中で江戸を感じさせていました。 牛込橋でソメイヨシノが満開の外濠を越えますと、神楽坂下交差点へと至ります。ここから北西方向へ続く坂道が神楽坂です。早稲田通りの一部をなすものの、神楽坂の部分は「神楽坂通り」の名前で通称されるのが一般的です。神楽坂の名前の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神(築土神社)が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえてきたから、またこの坂に赤城明神の神楽堂があったから、などの諸説があることが、坂の歩道に設置された案内表示に記されていました。神楽坂は戦前、大正期を中心に栄えた花街として知られ、現在でもその面影を残す風景に粋を感じる大人の街です。表通りを歩きますと、チェーン店の飲食店や喫茶店、コンビニエンスストアなども立地する、ごく一般的な町並みに映ります。しかしながら、一歩路地裏に足を踏み入れますと、住宅街の中に石畳の街路が続き、料亭が点在する景観が展開し、一気に洗練された雰囲気が漂い始めます。神楽坂の毘沙門天として親しまれる善国寺あたりから北へ入る本多横丁を進み、さらに細い横丁を西へ入り、右に左に続く石畳の街路を散策しました。美しく整えられた生垣や板塀の景色が石畳によく馴染んでいまして、神楽坂の粋のほんの一端に触れることができました。周辺は他にも多くの文人に愛された歴史的なテイストに満ちた小路や史跡が散りばめられていまして、古きよき神楽坂が保たれているようです。
石畳や石段の小路をたどり、建設の際議論を呼んだという神楽坂アインスタワーの脇に出ました。マンション脇の寺内公園は、この一帯が、行元寺という寺院の跡地(1907(明治40)年、西五反田へ移転)で「寺内」と呼ばれていたことから名前が付けられました。行元寺の門前は兵庫町という古くからの町場であり、安政年間(1854〜60年)頃に神楽坂の花柳界が発祥した地としても知られているようです。そのまま大久保通り沿いに北東に進んでから、白銀公園へと路地を入りました。公園の下まで続く坂は「瓢箪(ひょうたん)坂」と呼ばれているようで、表示板によると坂の途中がひょうたんのようにくびれていることからそのように呼ばれるらしいようでした。枝垂桜が美しい公園からは、アインスタワーが屹立することを除いては穏やかな町並みが美しく眺望されます。それはまさに数多くの坂の中に豊かな町場が展開する東京の一風景として目に入りました。公園横のゆるやかな上り坂となっている路地をさらに入りますと、赤城神社へと至ります。1300(正安2)年に群馬県赤城山麓・大胡(現在の前橋市大胡町周辺)の豪族大胡氏が牛込に移住の際本国の鎮守であった赤城神社の御分霊を牛込早稲田村田島(現在の早稲田鶴巻町)に勧請したことに始まることが、境内に設置された表示板に説明されていました。この大胡氏が現在の光照寺付近に城郭(牛込城)を開いたことが、町場としての神楽坂の歴史のスタートであるようです。 家康の江戸入城以後武家屋敷の所在地として整備され、牛込見附が整備される中で神楽坂と周辺の町割が形づくられます。明治期以降は町人町となり、甲武鉄道牛込停車場(現・JR飯田橋駅)の開設により商業地としても急速に成長した神楽坂は、藩政期来の花柳界の繁栄や文人たちの活躍などもあいまって、活気のある町場へと成長していきました。赤城神社の境内は高台になっていまして、周囲の家並みが穏やかに見通せました。戦後の都市化の中で低層のアパートやマンションが多く建設されているようで、神社脇の土留めをされた斜面の脇にまでそれらは迫っていました。赤城神社の門前の町並みを経て再び神楽坂通りに戻り、賑やかな商業地域となっている巷を歩きます。路地裏の雰囲気や住宅地の風景との対比の中で、神楽坂という地域が歩んだ歴史の輝きと、現代の都会の姿とが当たり前のように隣り合うことの意味について、しばらく思いをめぐらせていました。
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