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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#17 東京リレーウォーク(9) 〜小岩から柴又へ 地域をプロファイルする〜 (江戸川区・葛飾区) 2008年9月27日、両国界隈から始まったフィールドワークは、墨田区から江東区へと進み都市の拡張史に触れながら江東区の地域を歩いた道のりは、JR総武線の利用によるインタバルを経てJR小岩駅へと至りました。南口の駅前は放射状に伸びる街路沿いに店舗が立ち並ぶ風景に近隣の商業中心地としての姿を感じながら、北口へと回り商店の中にマンションやオフィスビルが連続する通りをたどりました。蔵前橋通りを東へ、人通りの多い地域を歩きます。小岩駅はJR総武線では東京都内最東端となり、江戸川を介して千葉県と接する位置にありますが、幹線道路沿いは建物によってほぼ埋め尽くされており、人口68万人余りの江戸川区における土地の稠密性の一端を感じさせます。 柴又街道との交差点を北へ進みます。柴又街道沿いは、中小の商店街とマンション建築とが混ざり合う風景が続きます。歩く人の動線に寄り添うような町並みからは、日常生活に密着した豊かなコミュニティの存在を想起させます。建物の多くは現代建築で、古い商店街で散見される、明治大正期ころから続くような町屋や土蔵造りの建築物が見られないことから、そこまで遡るほどの町ではないことが推察されます。実際、小岩一帯は近世から近代初期にかけては江戸(東京)郊外の農村地帯で、町場といえば現在の京成線江戸川駅周辺から南北に延びる商店街だけであったようです。そこは、江戸川を渡河する交通の要衝で、佐倉道と元佐倉道が合流し、かつ南北に走る岩槻道にも接する立地でもありました。渡船場であった小岩・市川の渡しには御番所(関所)が置かれたことから、御番所町と称された歴史のある町場であるとのことです。
建築用と思われる土砂を運搬する大型ダンプがひっきりなしに通過する柴又街道を北へ、京成小岩駅方向へ進みます。中小の商店やマンション、アパートなどが軒を連ねる街道から、同駅の手前より東へ、「上小岩遺跡通り」と名付けられた街路を京成線をくぐってさらに歩きますと、やがて商店街は戸建ての家々の卓越した閑静な住宅街の趣を呈してきます。道すがら、「上小岩親水緑道」と名付けられた小路が、住宅の間を北へ続いているのを見つけました。明治期の地形図を確認しますと、この水路が流れる場所は一面の水田であったようです。江戸川最下流の低地帯に、近世以降開発されてきた豊かな美田が展開する中、たゆたうように流れる小川の様子(あくまで私の個人的な推測です)が、現在の住宅地の中の親水公園の景観にオーバーラップされてくるようです。 北小岩六丁目から七町目にかけての一帯は、古墳時代前期(今から約1600年前)を中心とした低地の集落遺跡である「上小岩遺跡」の中心となる地域です。小岩の古代史を語る上でしばしば引用されるのが、奈良・正倉院文書に記載された養老5年(721年)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍です。この中に甲和里(こわり)という集落名が見え、この集落が小岩に比定されるというものです。この「甲和」の名称は、地図を見ますとアパートや施設の名称などに散見されますね。小岩は藩政期には、上小岩、中小岩、下小岩、小岩田、伊予田(先述の「御番所町」の所在地)の各村となっており、遺跡の名前は主たる分布範囲がこの上小岩村の場所に相当することからの命名です。現在は北小岩となった旧上小岩村の住宅エリアを北へ進みながら、江戸川のほとりへ。対岸に市川市の国府台の高台を眺めながら、西側に小岩エリアの落ち着いた雰囲気の家並を望みながら、広い空の下、江戸川の堤防の上を歩きました。堤防上は多くの人々が散策を楽しんでおり、河川敷のグランドではまた多くの人々がスポーツにいそしんでいました。北総線の高架下をくぐる少し前あたりから区境を越え、葛飾区柴又へと移り変わっていきます。堤防には所々に彼岸花が赤い花をのぞかせています。小岩の里が水田に囲まれていたころの記憶を今に伝えているかのようです。
柴又は、名作映画の舞台として、また帝釈天や矢切の渡しなどの所在として、全国的に著名な場所となりました。柴又帝釈天は経栄山題経寺と号し、1629(寛永6)年、開山上人を下総中山法華経寺第19世禅那院日忠として開かれました。寺の説明によりますと、実際の開基は、その弟子の第二代題経院日栄であるとしているようです。中興の祖である第9代亨貞院日敬上人が、1779(安永8)年の春、本堂の改修中、梁上に長い間行方不明となっていた本尊(片面に日蓮の真刻、病即消滅本尊の形木、片面は帝釈天王の像を表したという板本尊)を発見しました。この発見がこの年の庚申の碑であったことから、当時の庚申信仰と結び付き、庚申の日が縁日となりました。この板本尊を拝んだ民衆が不思議な霊験にあずかったとのことから、帝釈天の庚申まいりは次第にその名が知られるようになり、今日の門前町へと続く町場が形成されていきました。帝釈天に隣接して現在も運航される矢切りの渡しの存在もあいまって、活気のある観光地が形成されています。 堤防を降りて矢切の渡しの乗船場に列をつくる観光客と渡し船が川面を行く様子とを一瞥しながら、帝釈天へ。「江戸を歩く」(田中優子著、集英社新書ヴィジュアル版)では、柴又周辺を描写して、大きな川沿いに高速道路が寄り添っていないことに新鮮さを感じ、東京に残る江戸の残像を重ねています。日本の道路の起点である日本橋をはじめ、隅田川、荒川と、東京都心やその周辺を流れる河川の岸には高速道路の用地に供されていて、現代都市のロジスティックスの血流を構成しています。首都圏の形成と大都市圏化の中で、江戸はその姿を部分的に残しながらも現代都市の中へと埋没していき、そうした江戸の雰囲気を感じさせる柴又の地に至って、ようやく高速道路のない、江戸時代の川の流れを想起させる場所に立つことができる、と。映画が表現した下町の人情溢れる情景の中に、こういった江戸のよすがもまた大切な要素となっているこということなのかもしれません。
柴又帝釈天をお参りし、二天門をくぐって、門前の街並みを歩みます。映画のシリーズが終了して一定の時間が経ち、柴又を訪れる観光客は減少しているとの話もあるようです。しかしながら、はじめて柴又を訪れた私の目には、活気にあふれる現代の柴又の町がそこにありました。京成線柴又駅に着き、駅前に表情豊かに設置された「寅さん」の銅像が柴又の町を振り返る姿を確かめながら、この日の町歩きは終了となりました。一日で歩いた行程は、江戸川(古来は古い時代の渡良瀬川の下流部であった「太日川(ふとひがわ)」でした)下流域の低湿地に拠った人々が集落をつくり、農地を切り開き、やがて町場が形成され、首都の急成長に伴って瞬時に都市化の波に洗われた地域の歩みをプロファイルする道程そのものであったように感じられました。 東京リレーウォーク、次回は京成線柴又駅からの帰路経由した、JR常磐線・金町駅を起点とし、北へと向かいます。 |
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