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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#18 東京リレーウォーク(10) 〜金町から水元へ 河川と田園の面影を歩く〜 (葛飾区)

 2008年10月4日、JR常磐線・金町駅から北へ、東京都区部北側、葛飾区から足立区にかけてのエリアを歩きました。総武線沿線でも利用客が年々増加しているという金町駅前は、都心へ向かう人の流れの結節点となっているとともに、近隣地域における重要な商業核として十分な中心性を擁している様子が見て取れます。かつて駅の北西側に立地していた三菱製紙の工場跡地には東京理科大学を誘致する再開発計画も進んでいるようです。中高層のマンションも散見され、都心近傍の良好な住宅地として着実な成長を遂げてきた金町駅周辺は、歴史的には河川や田園地帯に接する、いわゆる水郷地帯としての性格の強い地域でありました。

 江戸川に接し、水戸街道の沿線でもあったことから古くから町場が形成されてきた南口に対し、北側のエリアは水戸街道沿線でもあった江戸川堤防一帯を除けば、近代以降も伝統的に一面の田園が広がるエリアであったようです。今回は、東京近傍のエリア探訪ということで、都立公園としては最大規模という約92ヘクタールの敷地面積を持つ水元公園へ向かいつつ、そうした田園地域としてのバックグラウンドを確かめる道程となりました。

金町駅前

JR金町駅北口の景観
(葛飾区東金町一丁目、2008.10.4撮影)
金町駅前

JR金町駅北口・金町駅前団地景観
(葛飾区東金町一丁目、2008.10.4撮影)
東金町

ネギ畑の見える景観
(葛飾区東金町五丁目付近、2008.10.4撮影)
水元公園

水元公園・水辺環境の復元ゾーン
(葛飾区水元公園、2008.10.4撮影)

  現在は整然と区画整理された街路に穏やかな住宅地が展開する金町駅北のエリアを公園方面へ進みます。新しい住宅に混じって古くから存在してきたような旧家や畑などが点在しておりまして、かつてのこの地域の土地柄を端的に見て取ることができました。水元公園は小合溜(こあいだめ)に沿ってつくられた、水郷公園です。小合溜は1729(享保14)年に、周辺への灌漑用水の供給と洪水を抑止するための遊水地としての役割を目的として、旧古利根川の流路の一部を利用して設けられたものです。古来、利根川は東京湾に注いでおり、現在の中川(古利根川)のルートを流下していました。荒川も現在の流れではなく、元荒川のルートを経て古利根川に合流していました。
 
 近世以降利根川は徐々に東へ付け替えられ銚子へ流れるようになり、荒川も入間川のルートへ遷されました。それまでは利根川や荒川は乱流を繰り返し、しばしば流路を変えていたようで、小合溜に名残を残す古利根川の痕跡も、そうした変遷の歴史の証跡であるのでしょう。現在の綾瀬川がかつての足立郡と埼玉郡の境界をなしていることは、この流れが荒川の旧流路であったことを示していると言えるでしょうか。付け加えますと、足立郡と葛飾郡の境界は利根川本流(現在の古利根川〜中川)であり、ここは同時に武蔵国と下総国との境でもありました(藩政期になり、現在の江戸川の流路に利根川のルートが変わると、江戸川以西の葛飾郡は武蔵国に編入された。利根川はその後はさらに東へ、現在の流路へと付け替えられていく)。ちなみに、JR亀有駅付近で足立区と葛飾区の境界(かつての足立郡と葛飾郡の境界)が中川から外れて荒川へつながっていく部分は、かつての隅田川の流路を反映したもので、隅田川はもともとは利根川の最下流部でした。このように、めまぐるしい流路の変更と河川の付け替えが繰り返されてきた歴史は、新旧の川の流れや痕跡として目にすることができるとともに、区の境界として生き続けていまして、それは水害と隣り合わせであった地域のすがたを今に伝えています。

梵鐘とさくら堤

「松浦の鐘」と「水元さくら堤」
(葛飾区水元公園、2008.10.4撮影)
水元公園

水元公園の景観
(葛飾区水元公園、2008.10.4撮影)
香取神社

香取神社
(葛飾区東水元二丁目、2008.10.4撮影)
水元公園

水元公園・苗圃
(葛飾区水元公園、2008.10.4撮影)

 水元公園は、穏やかな青空の下、快い緑と空気に包まれていました。公園の東側は旧水産試験場の跡地です。現在は水産試験場があった歴史を保存しながら、貴重な水辺の生態系を保護し、小合溜における水郷環境を復元させた修景がなされています。ヨシが繁茂する水辺がヤナギやハンノキの林に抱かれる景観は、実に緑豊かで、みずみずしい潤いに溢れているように感じられました。公園を西へ進み、「水元さくら堤」と呼ばれる穏やかな並木道を通りながら、大下稲荷神社や「松浦の鐘」と呼ばれる梵鐘、「しばられ地蔵」で知られる南蔵寺などの事物を確認しつつ、穏やかな公園内を散策しました。

 香取神社脇の水元大橋を渡ると、広々とした「中央広場」やポプラ並木、バードサンクチュアリやメタセコイアの森など、多様な緑地景観を併せ持つ現代の公園の中へと導かれます。多くの人々が訪れていまして、まさに都会のオアシスといった場所です。感心したことは、水元公園は「苗圃」としての役割を担っていまして、約3.3ヘクタールの土地に、91種、約7,300本(平成8年現在)の苗木が育成され、公園の樹木や街路樹として生かされているということでした。公園はそのものが水辺の森として癒しを与えているだけでなく、都市の中へもまた緑を供給する源ともなっていました。

水元公園

水元公園・ポプラ並木
(葛飾区水元公園、2008.10.4撮影)
東水元

畑(家庭菜園?)の見える風景
(葛飾区東水元六丁目、2008.10.4撮影)
東水元

東水元六丁目(小合上町)の街並み
(葛飾区東水元六丁目、2008.10.4撮影)
閘門橋

閘門橋・橋脚部のモニュメント
(葛飾区水元公園、2008.10.4撮影)

 澄んだ大空にぴんと立ち並ぶポプラ並木の元を歩き、水元エリアの穏やかな住宅地の中を進みます。「小合上町自治会館」や「小合上町児童遊園」など、かつての地名が自治会名として生きている様子が確認できます。戸建ての住宅が卓越する閑静な住宅地の間には、金町駅の近くで見た風景と同様に、ネギや大根、ブロッコリー、サトイモなどの作物が植えられた畑が多く点在しています。葛飾区から江戸川区にかけて、かつての南葛飾郡のエリアは、そうえいば小松菜や金町小カブなど、都市近郊で多く栽培される蔬菜のふるさとであることが思い起こされました。江戸近郊の野菜供給基地であった昔の農村地帯は大都市圏の只中の人口稠密エリアへと変貌し、主要近郊農業地帯は遥か遠方の北関東へと遠のいて久しい中にあって、自家消費中心と思われる畑の存在はそうした地域の在りし日の姿を彷彿とさせて、心が揺さぶられました。無人販売所で新鮮な野菜が並べられる場所にも出会うことができました。

 都道67号に出て北へ、三郷市方面へ進みますと、水元公園の小合溜へと続く大場川に架かる葛三(かつみ)橋のすぐ東に、都内に残る唯一のレンガ造アーチ橋である閘門橋(明治43年;1910年完成)を見つけました。古利根川の支流となっていた小合川(現在は大場川)の逆流を防ぎ、水田への用水の確保と岩槻街道の通行路として閘門(水位・水量・水流等を調節する水門)と橋とが設けられたといわれているようです。アーチの橋脚部には、風雨に耐えながら閘門の堰板をはめ込もうとする人物を模したブロンズ像が設置され、洪水と隣り合わせに暮らしてきた人々の生活史を今に伝えていました。

 その後、戸ヶ崎交差点を西に折れて潮止橋にて中川を越えて、堤防に沿って南下し足立区に入りました。潮止橋を渡る手前、八潮市域が中川より東に張り出しているのも、やはり中川が乱流していた過去を示しているものです。

 この日のフィールドワークの記録は次項に続きます。


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