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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#19 東京リレーウォーク(11) 〜花畑界隈 穏やかな水辺の散歩道〜 (足立区) 2008年10月4日、JR常磐線・金町駅から北へ、水元公園を目指して進んだフィールドワークは、中川の土手を越えて足立区域へと到達しました。このあたりには、改修が行われたまっすぐな河道を呈する現在の河川のあわいに、そうした地形発達史を濃厚の刻んだ痕跡がよく残されています。水元公園を構成する小合溜もそのひとつで、また中川の右岸、都県境をなす垳川(がけがわ)もまたしかりということになります。垳川は綾瀬川がかつてたどった流路であるようで、地域によっては「古綾瀬川」の通称でも呼ばれているようでした(古綾瀬川の名前で呼称される河川は、通常は越谷市と草加市境を形成しながら南流する別の流れを指します)。 足立郡と葛飾郡は、埼玉県に北足立郡や北葛飾郡があるように、武蔵国と下総国にまたがる広大な範域を持った地域で、その範囲はまさに利根川や荒川、綾瀬川が氾濫を繰り返してきた舞台そのもので、現在は多くの地域が市制に移行しているため目立たないものの、北は鴻巣市付近や古河市付近までもが足立郡や葛飾郡の範疇でありました。明治に入り廃藩置県が行われて、細かい変遷は省略しますが大雑把にまとめると埼玉県分が「北足立(葛飾)郡」、東京府分が「南足立(葛飾)郡」となり、後に東京市が拡大される(1932(昭和7)年)にあたり、南足立郡が足立区に、南葛飾郡北部が「葛飾郡」として東京市に編入されました。中川堤防と垳川の東端とが接する位置に「神明・六木遊歩道」と刻まれた木製のアーチを発見し、遠くに垣間見える木々に囲まれた雰囲気に好感を持ったこともあって、その垳川沿いにつけられた散策路をたどってみることにしました。
遊歩道を歩き始めますと、程なくして緑豊かなケヤキの林の中に吸い込まれていきました。林の北側は垳川の流れ、すぐ南には住宅が迫っており、実に穏やかで閑静な佇まいです。歩道上には時折木々の根がむき出しのように張り巡らされる場所もあって、里山の小路を歩いているような錯覚にさえ陥ります。この「神明・六木遊歩道」は、「武蔵野の路(みち)」と呼ばれる、東京都が地域の自然、歴史などにふれながら周回できる散歩道を整備する事業の一環で建設された21のルートのひとつである「舎人コース」の一部分をなすものであるようで、現地に設置された案内板には、この垳川沿いの散策路を経て西へ、綾瀬川や毛長川を望みながら荒川端の鹿浜橋へ至る「舎人コース」の全体図が描かれていました。 緑に溢れた「武蔵野の路」を進みます。垳川がかつての綾瀬川本流であったことは先に触れました。江戸初期に綾瀬川が現在の内匠橋付近から南へ流下する流れに付け替えられたことにより同川より分断され、ら切り離され、1729(享保14)年には中川とも切り離されて、垳川は現在では河川としての機能を失っており、北から流入する葛西用水路の溜池としての役割を占めるようになっています。そのため、垳川は見た目には川のような形となっているものの実際は細長い池のようなものであるようで、流れはほとんどといっていいほど無く、水面には水草のような緑色の物体で覆われている箇所が多く、地域の小学校が水質の浄化に向けた活動を行っている報告内容が道端に掲げられていたのをはじめ、官民一体となった取り組みが進められているようでした。
散策路周辺の緑は藩政期からこの地域に存在してきた木立であるようで、近隣の神社の鎮守の森や、屋敷林、畑で栽培される野菜の緑などのみずみずしさともあいまって、大都市の近郊地域としてはたいへん快い環境が維持されているように感じられます。そうした気持ちの良い散策路に惹かれて、多くの人々が訪れていて、それぞれのペースでウォーキングをされていらっしゃいました。沿道には適度な間隔でトイレが併設された公園が設けられており、適宜休憩をとることもできるように配慮されていました。 首都高速の高架が見え、先に紹介した綾瀬川の人工水路まで達しますと一気に現代の大都市の只中に放り込まれたような気分になります。神明・六木の道はここまでで、「武蔵野の路」は少し南に下った場所にある内匠橋によって綾瀬川を越え、しばらくは綾瀬川の流れに寄り添います。花畑小学校の東から北へ、都道を進みますと、都県境が綾瀬川より南に張り出した、綾瀬川のかつての流路と思われるラインに沿って、「古綾瀬川遊歩道」が整備されていました。周辺は流通関連と思われる事業所やマンションなどが立ち並ぶエリアとなっており、雑木林の多かった垳川周辺よりは現代的な景観を呈するようになっています。浮花橋で遊歩道を離れ、土地区画整理事業が進む花畑エリアへと歩を進めていきます。
花畑(はなはた)は、上にお話しした、1932年に「足立区」として東京市の一部に組み込まれた、かつての南足立郡の村のひとつの名前です。1889(明治22)年の市町村制施行に伴い、8つの村を統合して発足した花畑村の名は、合併に際しこれら8つの村々の中でも最大であった「花又村」の名を取り命名されたものであるといいます。綾瀬川やその流路の名残である垳川に沿って形成された自然堤防に沿って集落が形成され、後背地には広く水田が広がる、典型的な低地の農村風景が広がるエリアであったようです。現在でこそ人口64万人あまりを擁する足立区が、1932年に1つの区としてまとめられたことは、当時区を編成するにあたり、なるべく既存の区と同程度の規模になるよう配慮されたであろうことを推し量りますと、東京からの都市化が緩やかに及びながらも、まだ全体として農村的な景観が卓越していたことの端的な証左であるといえるのかもしれません。 現在の花畑地区は、所々に畑などが点在し往時の姿の名残をとどめながらも、区画整理が進行して劇的に姿を変えているように思われます。UR都市機構の団地などの集合住宅が立ち並ぶ地域は、広い道路のここそこに広い空閑地を残して、それらが徐々に戸建ての住宅地へと移り変わろうとしている様子が見て取れるようでした。花畑公園南側の近隣商店街的な商店集積地あたりまで到達したところで夕闇の迫る時間帯となり、東武線竹ノ塚駅へ向かうバスに乗車してこの日のフィールドワークを終えました。 東京都区部の外縁部にあって、花畑エリアは隣接する水元エリアとあわせて、相対的に豊かな田園環境を今に残す数少ない地域のひとつであることを実感してあまりある行程となりました。月並みな感想ですが、今後ともこの快い近郊都市景観が、地域の発達史とともに鮮やかに刻まれていくことを心より希望したいなと思います。 |
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