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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#23 東京リレーウォーク(15) 〜石神井川を辿る 板橋宿を目指す〜 (北区・板橋区)

 2008年11月2日、南千住駅前から荒川区内を彷徨したフィールドワークは、再び都電荒川線を利用して王子駅前まで到達しました。ここからは石神井川の流れに沿いながら、江戸四宿のひとつであった板橋を目指します。王子駅は北区における拠点駅の一つで、北区の行政機能が集積するほか、駅北側には繁華街が形成される活気のあるエリアです。一方、約280年前に八代将軍徳川吉宗により桜が植えられて以来行楽地として多くの市民の憩いの場となっている飛鳥山公園のあるまちでもあります。この飛鳥山公園は上野や日暮里(諏方台)などから北へ続く台地の一部をなしており、山手線・京浜東北線はその台地の縁に沿って進みます。

 この「東京リレーウォーク」の項で多くをお話ししているとおり、現在の東京23区内にあっても、荒川区より北側の一帯は明治期から昭和初期のころまでは農村的な景観が卓越していまして、この王子あたりでもその例外ではなく、飛鳥山より西側の台地上には集落や畑地が点在し、それより東、荒川の氾濫原にあたる低地は一面の水田地帯であったようです。石神井川はこの王子で台地から低地へ流れ出て、荒川に注いでいます。そのため、この付近では石神井川は台地を削って渓谷のような景観を見せています。

王子

王子駅付近の景観(明治通り、右側は飛鳥山公園)
(北区王子一丁目、2008.11.2撮影)
王子

王子駅付近の景観(右方向は明治通り)
(北区王子一丁目、2008.11.2撮影)
王子神社

王子神社
(北区王子本町一丁目、2008.11.2撮影)
音無橋

音無橋を見上げる
(北区王子本町一丁目、2008.11.2撮影)

 1322(元亨2)年、この地域の領主である豊島氏が、古くより祀られていた場所に紀州熊野三社より王子大神を改めて勧請したことから(現在の王子神社)王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれているとされます(王子神社ホームページの説明を一部参照)。 石神井川は、かつては飛鳥山の西側を流れ、谷中の項でも紹介した、現在暗渠となっている藍染川の流路をとって不忍池へ注いでいたというのが通説のようです。それが何らかの理由により荒川へ注ぐ現在の流れに変わり急に低地に流れ出るようになったため、前述のように急激に大地を削るかたちとなりました。音無橋の下に展開する穏やかな親水公園の中を行き、西へ、石神井川沿いを進みます。

 流れはコンクリートで固められており、川の両側の多くで散策路が整備されています。周囲は閑静な住宅街です。所々に川が蛇行していた跡を利用した緑地が認められます。これは流路の直線化によって残された旧流路の一部を緑地化したもので、がちがちに護岸なされた現代の河川も、かつては自然のままに台地の中をゆるやかに流れていたことを示す事物であり、自然の水や緑に富んだ往時の姿を想起させています。設置されていた「松橋弁財天洞窟跡」と称された説明板には、1975(昭和50)年前後に行われた護岸工事の前までは弁天像を納めた岩屋が残されており、滝も多かったこの一帯が江戸市民の行楽地であったことが示されていました。滝野川という地名もこうした地勢を反映したものであるのでしょうか。

石神井川

石神井川の景観
(北区滝野川二丁目、2008.11.2撮影)
石神井川

石神井川・旧流路跡の景観
(北区王子本町一丁目、2008.11.2撮影)
石神井川

石神井川・音無くぬぎ緑地
(北区滝野川四丁目、2008.11.2撮影)
石神井川

石神井川・遊歩道の景観
(北区滝野川五丁目付近、2008.11.2撮影)

 「音無くぬぎ緑地」などの旧流路の緑地帯のほか、川沿いの遊歩道に沿っても桜やケヤキなどの木々が配置されていまして、快く散策を行える、快適なウォーキングを進めました。埼京線の下をくぐりますと、北区から板橋区の範域となります。マンションや大学施設などがのびやかに立地するエリアを抜けますと、旧板橋宿のエリアへと到達します。王子駅からはおよそ3.5キロメートルの道のりです。旧中山道が石神井川を渡る場所に架けられた橋は、その名も「板橋」といいます。板橋の地名の由来となったともいわれる橋であると、橋のたもとに設置された説明板が語っています。

 この板橋の名称は既に鎌倉・室町時代の文献にも認められるとのことで、この頃より主要な交通路として機能してきたことがうかがわれます。江戸時代となり五街道のひとつ中山道が整備され、宿場町が設けられるとその名となり、近代以降は町の名前となり、現在の板橋区の名前にまで受け継がれました。板橋宿はこの板橋を挟んで南北に20町9間(約2.2キロメートル)にわたって展開し、板橋から京寄りを「上宿」、江戸寄りを「中宿」、「平尾宿」と称しており、この3宿は総称して「板橋宿」と呼ばれていました。板橋宿の中心となる仲宿には本陣や問屋場、多くの旅籠が軒を連ねており、かなり繁華な町場が形成されていました。この板橋より南が、「江戸御府内」、すなわち江戸の内とされていたようです。現在の板橋は川の護岸工事に合せて1972(昭和47)年に架けかえられた橋で、江戸期には木製の太鼓橋であり、大正期での掛け替えを経て、1932(昭和7)年にはコンクリート製の橋へと整えられていたとのことです。

板橋

板橋(南詰より北方向)
(板橋区本町付近、2008.11.2撮影)
縁切榎

板橋宿・縁切榎
(板橋区本町付近、2008.11.2撮影)
板橋宿

旧板橋宿・上宿の景観
(板橋区本町付近、2008.11.2撮影)
板橋宿

旧板橋宿・中宿の景観
(板橋区仲宿付近、2008.11.2撮影)

 板橋から北の商店街を進みますと、「縁切榎」と呼ばれる榎の木があります。江戸時代にこの木のある場所から街道を挟んで向かいにあった旗本の抱え屋敷の垣根に榎と槻(けやき)の古木があり、そのうち榎の木がいつの頃からか「縁切榎」と呼ばれるようになって、嫁入りの際にはその下を通らなかったと伝えられているのだそうです。1861(文久元)年の和宮下向の際にも、この榎を避けてう回路を辿ったとする記録が板橋宿中宿の名主の古文書に認められるのだそうです。縁切榎は男女に悪縁を切るほかに難病との縁切りや、悪縁を切る反対に良縁を結ぶという信仰も広がって、板橋宿の名所の一つとなっています。

 再び日本橋から2里25町33間(10キロ642メートル)の距離にあるという板橋へ戻り、江戸の方向へ穏やかな商店街を進みます。幹線道路から外れた一方通行路となっていることもあって、自転車や歩行者が訪れやすい昔ながらの商店街が連続しています。北千住のようにターミナル駅の近傍ではないため程よい人の流れが保たれているように感じます。建物は現代建築がほとんどを占める一方で、一部に町屋のテイストを残す建物が認められて、穏やかな町場としての雰囲気を印象づけました。旧街道は南進するとやがて首都高速の高架が載る現代の「中山道」たる国道17号に行き当たります。板橋宿はかつては中山道から川越街道が分岐する、交通上の結節点でもありました。川越街道は現在の国道254号に相当し、板橋ジャンクションのあるあたりがかつての分岐点であったと想定されます。高速道路やひっきりなしに車両が通過する幹線道路に遭遇しますと、ここは巨大な都市の只中であるということを当たり前ながらも実感します。板橋宿からは、既に夕刻となっていたためこれ以上旧中山道を辿ることはせず、都バスを利用して副都心・池袋駅前へ向かい、この日の行動を終えました。

 王子から板橋まで、石神井川を辿るルートは、閑静な住宅街が展開する地域を緑に溢れる遊歩道を使って軽やかにめぐり、自然に満ちた原風景や、繁華な町場であった旧宿場町の姿を肌に感じることのできる、たいへんのびやかな空気に包まれた行程でした。

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