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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#29 東京リレーウォーク(19) 〜大田区東部を歩く〜 (大田区) 2009年11月28日、前回東京フィールドワークを終えたJR大森駅から彷徨をスタートさせました。この日の行程は大田区東部、大森から糀谷界隈を経て蒲田へ至り、田園調布方面へ向かうルートを想定していました。大田区は1947年に東京35区が再編されて現在の23区制へと移行した時に、旧大森区と旧蒲田区が統合されて成立し、区名も両区から一字ずつを採ったものであることはよく知られています。大田区は旧東海道筋にあたり中核的な商業地としての集積を持つ大森・蒲田を中心として、年々その拠点性を高める東京国際空港(羽田空港)エリアや区西部の高級住宅地域等を擁する多様な地域性を持ちます。まず行程の前半は大田区の東部を歩きます。
11月も下旬となり駅前は輝かしいクリスマスの飾り付けで溢れていました。駅周辺は西友やイトーヨーカドーを中心とした近隣中心的な商業地域となっており、日立製作所関連のオフィスビルも屹立しています。大森貝塚の発見された場所としても知られる大森は古くから人々にとって住みやすい、穏やかな湾奥の海岸であったのでしょうか、京急の大森海岸駅へと進む歩道にはかつて海苔の一大生産地として栄えてきた地域の歴史や、海水浴場としてにぎわった過去などを描いたレンガが所々にはめ込まれていました。京急の大森海岸駅の下をくぐり、この付近では旧東海道筋を辿る第一京浜へ。駅名にもあるとおり、このあたりががかつての海岸線で、現在平和島や大井ふ頭などの埋立地が広がるエリアは遠浅の海であったようです。南には多摩川が流れ込み、こうした地形が海苔栽培に適した環境であったのでしょう。多摩川が運んだ土砂の堆積により現在でも干潟が広く分布していて、干拓や埋め立てもまた施工しやすい地勢であったとも言えるのかもしれません。 旧東海道は平和島駅東付近で第一京浜から東へ逸れている部分があり、この区間は「美原通り」と呼ばれていまして、旧街道筋らしい町並みが見られます。当地の字名が「北原・中原・南原」であり、この3つをまとめて「三原」となり、やがて字が美原に変化したもののようです。内川に沿って東へ進み大森ふるさとの浜辺公園へ。人口の浜辺や干潟が設けられた同公園は、都市化が進んだ地域にあってのぼやかな水辺に親しめる貴重な場となっているようです。同公園の南から水門のある運河をたどると、小船が係留されている部分を経て埋め立てられた緑地公園に至りました。貴船堀緑地や旧呑川緑地など河川跡地を利用した緑地が多いのも東京の特徴ですね。呑川は1930(昭和5)年に開削された新呑川が本流となってます。内川や呑川はかつては自然河川で、上述の海苔産業を支える栄養供給源となったり、田畑を潤す灌漑用水として利用されてきた過去があるようです。
呑川緑地をしばらく辿り、前の浦交差点を南北に通過する通りを進みます。前の浦商店街の落ち着いたたたずまいを一瞥しながら、「旧羽田道」と記された石碑を見つけました。今は押しも押されもせぬ交通の一大拠点空港を擁する町としての印象が強い羽田は、元来は漁業を主な生業としてきた町場でした。現在でも釣り船屋が多くあり往時をしのばせる風景が見られるようです。明治期の地形図を確認しますと、旧東海道、現在の美原通りが内川を渡った右岸付近から羽田までの道路があり、これが「羽田道」と呼ばれていたようです。都市化に伴ってかつての羽田道は所どころに断片的に残されており、それらを辿る個所に石碑が建てられたものと思われました。新呑川を渡る橋には、海苔産業の様子を描いたレリーフが橋中央の張り出し部分にはめ込まれており、地域の歴史を伝えていました。川には海苔養殖用の小舟に変わり釣り船がひしめき合うように留置されていました。周囲はことごとく建物に囲まれた景観となり、水田が広がっていたであろう原風景からは一変しています。 新呑川より南は糀谷地区となります(住居表示上の「北糀谷」のみ川の北に位置)。大田区東部全体としても言えますが、東京湾岸の埋立地に進出した大規模な事業所を中心に構成される「京浜工業地帯」の中にあって、このあたりでは中小の製造業が住宅に混じって多く立地していることが特徴となっています。一つひとつの工場は規模が小さいながらも、加工や研磨、メッキなど特定の部門に秀でた向上が互いに連携しながら一大技能集団を構成し、地域で高い技術力を誇っています。そうした「ものづくりのまち」大田区にあって、糀谷エリアはそうした特質が特に顕著な近隣を形成しています。町並みを歩きながらも住宅地の中に多くの町工場が居を構えているようすを確認することができました。
糀谷エリアを回ってみますと、北前堀緑地や南前堀緑地といった運河を埋め立てた公園を再び目にしました。明治期の地形図を確認しますと、現在の大森東五丁目や大森南二〜五丁目、東糀谷四〜六丁目あたりの沿岸部は水田として利用されており、上述の運河群はそれらへの灌漑や排水のために利用されていることが類推されます。遠浅で干潟が卓越していた沿岸部では、おそらく近代以降急速に進められた埋め立ての前にも、少しずつ干拓などの新田開発が行われていて、上気した地域はその結果として開かれた田んぼなのではないかと推測します。しかし時代の変遷で水田は宅地や工業用地へと変化し、運河はその役割を終え、上下水道の整備もあいまって排水の機能も他へ移ると、都市化に伴う衛生環境の悪化もあって堀は埋め立てられ、たのでしょうか。南前堀緑地には旧排水場の赤煉瓦の建物が残されており、そうした地域の歴史を伝えていました。 羽田空港へ向かう動脈として近年大きく利便性を増した京急空港線の大鳥居駅から京急蒲田駅まで移動し、JR蒲田駅までの町を歩きます。長年の懸案事項であった高架化は訪問時は施工中でしたが現在では終了し、、第一京浜などにあった踏切はすべて撤去されています。西口から続くアーケード商店街を歩き、巨大なモニュメントが目を引くJR蒲田駅まで到達しました。高層の建物は多くないものの、駅ビルを中心に多くの商業系の建物が集積する駅前は規模の大きい商店街を形成しています。大田区に西側へ進むべく、東急が接続する西口へと回りました。 |
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