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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#30 東京リレーウォーク(20) 〜蒲田から田園調布へ〜 (大田区・世田谷区) 2009年11月28日、大森駅から大田区内東部をめぐりながら蒲田駅に到着したフィールドワークは、駅西口から区の西側をめぐるルートへと続きます。東急線が接続する西口は、2007年から2008年にかけてリニューアルされた駅ビル「GRANDUO蒲田」や「蒲田東急プラザ」を中心に商店やホテルが集積しています。蒲田西口商店街(サンロードとサンライズの二本のアーケード商店街)もあって、大田区内随一の商業地として賑わいを見せていました。当時建設中だった東京工科大の建物の前を通り、昔ながらのたたずまいを残す大城通り商店街を進みました。池上通り手前までおよそ1キロメートル続く商店街は、銭湯の煙突などもあって、古くからの街並みを今に伝えていました。
池上通りを西へ少し歩き、本門寺新参道交差点から北へ入り池上本門寺を目指します。本門寺前交差点からは池上駅からの参道と合流し、住宅地の中でも石材店なども存在して、大寺の門前であることを実感させます。境内へ続く石段の手前、大森から蒲田への道のりで渡った呑川に再会します。かつての呑川は湧水を源として、荏原台と呼ばれる大田区西部の洪積台地を刻みながら東京湾に流出する比較的規模の大きい自然河川でした。本門寺はその呑川が浸食した台地の上にあって、近代初期までは一面の田園地帯であった平地を見下ろす緑穏やかなランドマークであったことでしょう。高度経済成長期以降源流から河口に至るすみずみまで都市化・宅地化が進行した呑川は、若干の湧水の流入もあるものの、流れる水の多くは下水道処理後の高度処理水であるとのことです。 本門寺石段は、加藤清正が寄進したものと伝えられ、「法華経」偈文96字にちなみ96段にしつらえられています。別名では、「此経難持坂(しきょうなんじざか)」と呼びます。清正が1606(慶長11)年に祖師堂を建立し寺域を整備していることから、この石段もそれと同時期につくられたとみられています。春はソメイヨシノが咲き誇る下、心穏やかに散策ができる石段の眼下には、現代の池上の街並みがきれいに望まれます。境内は晩秋の夕闇が空を静かに染め行く中、カエデが鮮やかに色づいていました。
再び石段を下り、門前商店街を歩いて池上駅へ、電車を利用し雪が谷大塚駅から散策を再会しました。池上あたりではまだ広い平地を形成していた呑川も、この付近になると次第に氾濫原を狭めて、洪積台地をわずかに下刻する小川のような様相を呈しています。そうした低平で高燥な台地の上は元来水が得にくく、多くは畑地などとして粗放的に利用されることの多い土地でした。明治期の地形図を参照しても、中世以来の幹線道路であった中原街道筋を除いては畑が卓越するようすが見て取れまして、畑の中に家屋が点在していた風景が広がっていたようです。東京が近代的な都市へと飛躍し、国際港として横浜が急成長すると、それらの都市に近接した台地上は高級住宅地の適地として格好の開発の場となり、鉄路の建設と相まって郊外の住宅地域へと大きく変貌していくこととなります。世田谷区東玉川の閑静な住宅街を歩き、環八通りを横断しますと、そうした住宅地の象徴的な存在である田園調布駅前へと至ります。 1918(大正7)年に設立された田園都市株式会社により、理想的な郊外住宅地である「田園都市」を目指した宅地開発の一環として、1923(大正12)年、「田園都市多摩川台」の名称で分譲が開始されたのが田園調布の始まりです。目黒から田園調布を経て蒲田と連絡した目蒲線(現在は目黒線と多摩川線に分割)の駅として田園調布駅(開業時は「調布駅」)が開業した直後の実施でした。その後渋谷駅と横浜方面へ連絡する東横線も整備され、都心へのアクセス向上とともに良好な住環境から名実共に高級住宅街としての位置を確立していきました。西口の旧駅舎を活用したゲートをくぐり、たっぷりとしたスペースが確保されている駅前のロータリーへ。通常の駅前では見かけるバス停の群れも駅北側に集約されており、また商店などの施設も駅ビル内の商業ビル内に集められているようで、豊かな街路樹に覆われた駅前は高級住宅街らしく、駅前の在りがちな大衆的な喧騒が一切排除されていました。
駅前から放射状につくられた街区は厳しい建築制限の下、きれいに整えられた生垣のある邸宅群を一瞥し、田園調布のシンボル的な景観であるいちょう並木をそぞろ歩きながら、世田谷区域へと歩を進めました。イチョウは黄色に色づき始めていて、黄緑から黄色への美しいグラデーションを街並みに添えていました。環八通りに出て西へ進み、浄水場を過ぎたあたりから「寮の坂」と呼ばれる坂道を多摩川へ向かって下ります。この坂は多摩川の低地と久が原面とも呼ばれる台地との間に形成された段丘崖にかかるもので、多摩川が浸食した大規模な段丘崖である「国分寺崖線(こくぶんじがいせん)」の一部をなしています。坂を下りた先にある傳乗寺には、その本坊と並んで僧侶の学寮が建てられていたため、地域の人々が坂道を「寮の坂」と呼んでいたようです。当寺や隣接する宇佐神社の紅葉を観た後、国分寺崖線上の穏やかな住宅街を歩きました。ルートは世田谷区によって設定された四季折々の自然風景を楽しめる散策ルート「おもいはせの路(みち)」の一部で、所々に詩情を掻き立てる案内表示が設置されていました。 近いうちに多摩川を渡る「等々力大橋(仮称)」が着工される見込みの目黒通りの向こうに川崎方面の丘陵上の住宅地を眺めて、都内唯一の渓谷である等々力(とどろき)渓谷へ到達しました。滝などの水辺に祀られることの多い不動尊が等々力にもあり、境内を通って崖下の渓谷へと進みます。午後4時半を回りすっかりと薄暗くなってしまった渓谷内は闇に包まれており、天蓋のように覆う木々の枝の一つひとつがかすかに残る夕日の存在をあらわにしていました。谷沢川が国分寺崖線の急崖を浸食して形成した地形のため宅地開発の波から残された奇跡の水辺は、豊かな水が足元をこんこんと行き過ぎて、自然のままにその身を委ねていました。環八通りの下をくぐり、かつて存在したゴルフ場に因み「ゴルフ橋」と呼ばれる橋あたりから渓谷の上へ出て等々力駅に着き、この日のフィールドワークを終えました。田園調布から等々力渓谷までの道のりは、この地域の原風景を現代の街並みから遡って探求する楽しさを内包したものであったように思います。 |
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