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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#42 東京リレーウォーク(27) 〜目黒区散歩(後)、都市と農村との遷移地帯〜 (目黒区) 2011年2月19日の三軒茶屋からスタートしたフィールドワークは、祐天寺や学芸大学、都立大学の各駅前周辺を経て、世田谷区内所在の九品仏訪問を挟みながら目黒区内を東へ進み、再び碑文谷エリアへと入りました。純然たる農村地帯から郊外電車の発展で急速に都市化が進み、閑静な住宅地となっている地域をそぞろ歩きます。
現在の目黒区の南部を占めた旧碑衾町について、それを形成した旧村のうち、碑文谷が住所地名として残っているのに対し、衾のほうは消滅していることは既にお話ししました。この前の稿でも度々ご紹介していますとおり、多くの地名が住居表示により今日も住所地名として生きている一方、衾のように元は藩政村として一定規模の範域をもっていた伝統的な地名が住所地名として残されていないことも少なくないようです。目黒区では全域で住居表示が終わっているようで、「目黒本町」や「中央町」、「中町」といった、区の地理的中心に位置するなどの理由から命名されたものあって、どこか機械的な印象を与えます。もちろん、小字名については油面や田道(でんどう)など、小学校名などにその名を残している事例も散見されて、地域と密着してきた地名の奥ゆかしさのようなものも感じます。こうした地名の齟齬はひとえにそれぞれの名前が対象とする地域スケールの規模やその形態の差異によるところが大きいのではないかと思います。農村地帯から住宅地へと変貌して住居の数が飛躍的に増え、そうした対象を効率よく住居表示でまとめるには、旧来の字の範囲はあまりにも小さかったり、あるいは現代的な土地の区画に適合しにくかったりしたのではないかと推察します。 話題が横にそれてしまいましたが、目黒区内のフィールドワークは平町から環七通りを東へ越えて、碑文谷地域へと進んでいます。かつての衾村に相当するエリアが呑川流域に広がっているのに対し、碑文谷のそれは立会川の流域を占めているとみなしてほぼ間違いないようです。中流域は暗渠化されて緑道や道路として利用されている一方で、水源である碑文谷池と清水池近くの最上流部は地図を見ても一見して河道を判別することが難しいほど、宅地化が進行しています。碑文谷三丁目に鎮座する碑文谷八幡宮は旧碑文谷村の鎮守。境内には碑文谷の地名の由来となったとも言われる(諸説あるようです)、梵字が刻まれた「碑文石(ひもんせき)」が伝えられています。立会川の流れは八幡宮のの東北東にある円融寺との間を碑文谷池の方向に向かって流れていました。地域を歩きますと八幡宮の参道につながるようにして東へ続く緑道に向かって緩やかな下りとなっていることが実感できます。緑道には開花はまだ先のソメイヨシノがたくさんありました。春は大変美しい風景になることでしょう。寺社の境内には梅の花が咲き始めていて、早春の風を呼んでいるようでした。
瀟洒な鐘塔と優美な外観が地域にうるおいを与えているカトリック碑文谷教会(サレジオ教会として親しまれています)を確認しながら、既に午後4時に迫る時間となったため、バスを利用し大鳥神社前まで移動しました。区内最古というこの神社は、創建は806(大同元)年。江戸期には目黒不動、金毘羅権現と並び目黒の三社様と呼ばれ、地域の信仰を集めてきました。11月に開かれる酉の市でも知られています。大鳥神社は目黒通りと山手通りの交差点の近傍にあり、自動車交通の絶えない往来に接する立地となっています。目黒区の北部、旧目黒町のあたりを見ますと、目黒川の流れが規模の大きい谷底平野を形成し地域を縦断していることが特徴的に映ります。特に、JR目黒駅から下る権之助坂や行人坂は急傾斜で、地域を区切る強力なエッジとなっていたであろうことが容易に想像されます。実際、藩政期頃はこの坂のあたりは江戸市中と目黒筋とを結ぶ要路にあったようで、明治期の地勢図を見ても交通の要衝らしく街村的な町場形成がされる一方、坂下の目黒川流域より西方は純然たる農村地域の土地利用となっていて、目黒川(あるいはそれに沿った台地と低地とを分ける崖)が都市と農村とを分ける境界となっていたことが分かります。そしてそこは高台から西方の夕日を望む格好の行楽エリアであったともいいます。近現代になって交通網が飛躍的に発展し、都市が膨張をはじめますと、そうしたボーダーは簡単に崩れ去って、農村地帯は住宅地へと塗り替えられていくところとなりました。 大鳥神社より南、山手通りの西方にはそうした都市の喧騒から逃れるように、いくつかの古刹が残されていて江戸の時代を物語っています。山手七福神のひとつであり岩窟内に石造弁財天をが安置される蟠龍寺(ばんりゅうじ)や、海福寺、五百羅漢寺などを拝観しながら、目黒不動尊として知られる瀧泉寺(りゅうせんじ)へ。三軒茶屋近くの目青不動と同じく、江戸五色不動の一つとして広い信仰を集めました。仁王門をくぐり、豊かな木立に包まれた階段を上っていきますと、のびやかに大空に広がるような本堂が鎮座していまして、人々に愛される不動様の毅然さとおおらかさとを、それが体現しているように感じられました。
夕闇に染まる時間となり、目黒エリアの新旧の街並みが程よく調和する只中を、JR目黒駅方面へと急ぎました。桜の名所として著名な目黒川の流れを渡り、目黒新橋から権之助坂を進み、繁華な駅前へと到達してこの日の活動を終えました。行人坂から目黒へ抜けるこのルートは交通上重要な位置を占めたことは既にご紹介しました。急勾配であるこの道筋は元来かなりの悪路であったようで、後に権之助坂が開かれ目黒駅開設の後、メインルートは行人坂から権之助坂へと移り変わりました。この特徴的な坂の名前の由来については、区のホームページ内など多くの情報ソースが存在しますので、説明はそれらに譲り、ここではご紹介まではしないこととしたいと思います。山手線の駅として、現在でも都心と郊外とを結ぶターミナルの一つとなっている目黒駅前は、多くの人々や交通量で賑わいを見せておりまして、その要衝性は今日も変わりがないようでした。 三軒茶屋から始まり目黒区内を散策した今回のフィールドワークは、台地と小川とが穏やかに地域をまとめ上げていた地域の原風景を跡付けながら、それらの足跡をふんだんに残す現代の住宅地を和やかに見つめる道程となったのではないかと思われました。 |
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