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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#54 小名木川、塩の道を歩く 〜ウォーターフロントの風景〜 (江東区)

 現在の江東区域は、江戸の町の東郊にあたり、現在の深川エリアより東は低湿地や浅い海辺を徐々に干拓・埋め立てして形成されてきた土地です。明治期の地勢図を確認しますと、東京の市街地は隅田川を越えて大横川辺りまででその連坦が止まり、大横川以東は農村地域の間を運河が縦横に横切る長閑な風景であったことが想起されるような表現となっています。「久左衛門新田」など、開発者と思われる名を冠した地名や、「亀戸出村」など亀戸地区から分村したことが読み取れる地名もあり、大消費地江戸に食糧を提供した農村・漁村がこのエリアに急ごしらえで形作られてきたことが理解されます。そうした物資の輸送や、干拓を効率的に行うために、現在も区内に残る運河群が必要不可欠であったことも頷けます。

大島八丁目交差点

新大橋通り・大島八丁目交差点
(江東区大島八丁目、2013.3.23撮影)
塩の道橋

塩の道橋
(江東区大島八丁目、2013.3.23撮影)
小名木川

小名木川しおのみち
(江東区大島八丁目、2013.3.23撮影)
小名木川

小名木川の景観
(江東区大島八丁目、2013.3.23撮影)

 地下鉄東大島駅から新大橋通りを西へ、丸八通りの手前で南に入り、地域を東西に還流する小名木川のほとりに出ました。大島中学校に南に面して、「塩の道橋」があります。塩の道とは、小名木川が行徳(市川市)で生産された塩を江戸に運ぶために作られた運河であることから、その歴史的経緯を踏まえ愛称として名付けられたものであるようです。小名木川の名は、運河の開削を命じられた小名木四郎兵衛によります。藩政期を通じて塩以外の物流も盛んになりました。現在は明治時代以降につくられた荒川によって分断されているものの、小名木川は江戸川区内を東西に流れる新川と中川を介して有機的な運河を形成し、さらに江戸川から利根川へとつながる航路へと発展しますとますます物資の輸送が盛んになりました。明治期以降は産業地帯となり、先に参照した地勢図では運河沿いに大きな建物が立ち並んでいる様子が読み取れて、農村地域の中で運河沿いに工場が建ち始めた当時を反映した地図であるとも言えそうです。

 工業地帯はやがて市街地の拡大とともに成長した住宅地域に押し出されるようにより広い敷地を確保できる臨海地域へとその主要立地を移し、中高層のマンションが林立する地域となった小名木川沿いを東へ歩きます。江戸へ物資を運んだ歴史を感じながら、身近な水辺に触れ合えるウォーターフロントとして活かすため、小名木川は両岸に遊歩道が整備されて、気持ち良い散策を楽しめるようになっています。木柵をイメージした手すりや、石垣、随所に灯篭を模した街灯も設置されていまして、往時を感じることができるように修景されています。塩の道橋も、そうした周囲の景観に配慮して、木の質感を感じさせるデザインを採用しています。橋の南側は仙台堀川公園の北端で、塩の道橋は小名木川の水辺と仙台堀川公園の緑とを結びつけるとともに、両岸の大島・砂町地区との往来を便利にする役割も担っています。

小名木川

小名木川、ヤナギの並木
(江東区大島八丁目、2013.3.23撮影)
小名木川と旧中川の分流点

番所橋より小名木川と旧中川の分流点を眺める
(江東区内、2013.3.23撮影)
旧中川船番所付近

旧中川船番所付近
(江東区大島九丁目、2013.3.23撮影)
仙台堀川公園の入口

仙台堀川公園の入口
(江東区北砂六丁目、2013.3.23撮影)

 小名木川の穏やかな水面と、周囲の都市的景観とが織りなす現代的なウォーターフロントの風景を楽しみながら、遊歩道沿線に植えられた盛りを迎えつつあるソメイヨシノやカイドウの花、そして芽吹き始めたヤナギが春風にしなやかにゆれる春の川沿いを進みました。やがて小名木川は旧中川に行き着きます。川が旧中川で止まり、荒川には接続していないのは、先に説明したとおり荒川が後に作られたものであるためです。かつては新川がそのまま小名木川と旧中川の合流点に連結し、川の十字路になっていました。こうした航行上の要路にあたるこの場所には幕府によって1661(寛文元)年に中川船番所が設置されて、物流の監視にあたりました。かつて船番所があった場所には資料館があって地域の歴史を紹介するとともに、石垣や木柵、灯篭などを配置したテラスが整えられて、歴史と水辺に親しむことができるようになっています。

 春のうららかな日射しを受けて輝く小名木川や旧中川の美しい景色を眺めながら、川の南岸を再び西へ進みました。江戸の町のフロンティアとして開拓された農村地域は、現代の大都会の住宅地域として成熟し、物流のかなめとして重要な位置にあった運河は、急激に変貌した地域にあって長らく影のような場所であったのかもしれません。地盤沈下や水質汚濁といった環境問題にも直面する存在でもあったでしょう。しかしながら、地域の存立を支えた歴史という観点からかけがえのない資産として運河を再評価し、親しみの持てるウォーターフロントとして再構築を図った取り組みは素晴らしいものであると感じます。小名木川を眺めながらそうした思いを強くしました。

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