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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#72 小石川後楽園を歩く 〜初冬の深山紅葉を楽しむ〜 (文京区) 2018年11月25日、野田市内の散策を終えた私は、つくばエクスプレス・流山おおたかの森駅からつくばエクスプレスに乗り換えて都心へと向かい、春日駅から東京ドーム近くへを歩を進めました。日が短くなりつつあるこの季節は、高層建築物が林立する都心では太陽がつくる日陰と空の光量とが一定の隔絶性を持っているようで、その差が秋から冬へと向かう季節感をよりいっそう強いものにしているように感じられます。東京ドーム周辺のデッキを歩いて、東京ドームシティの喧騒を感じながら、小石川後楽園の南側へと出て、同園へと向かいました。
後楽園へと進む歩道はとても穏やかな散策路として整えられていまして、園内の木々と街路樹のそれとが有機的に連続していまして、日が短くなりつつある季節の中にあっても、植物がつくるみずみずしい風景を演出しています。やがて南西端にある小石川後楽園の入り口に到達しました。小石川後楽園は、特別史跡・特別名勝に指定される、都内でも有数の大名庭園です。後楽園といえば、岡山市にある日本三名園のひとつとして知られる庭園の名も想起されますが、小石川後楽園が特別名勝にとられる際、先行する岡山のそれと区別するために「小石川」を冠したという経緯があるようです。現在の文京区は、戦後にかつての小石川区と本郷区が統合して成立していまして、「小石川」は、現在でも文京区西部の地域名称として息づいています。江戸時代初期、1629(寛永6)年に、水戸徳川家の初代藩主である徳川頼房が、江戸の中屋敷の庭として造営し、後に二代藩主の光圀の代に 完成しました。「後楽園」の名は、その光圀が考案していまして、当時来日していた明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、え中国の古典にある「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後 れて楽しむ」より「後楽園」と命名したものと伝わります。 園内のカエデは緑の部分がまだ主体ながらも、随所に色づいた葉も見受けられまして、都心でも着実に季節が移り替わりつつあることを実感させました。池泉式の回遊庭園となっている庭園を散策しながら、四季の情趣を感じさせる風景を堪能しました。多く日本庭園において認められることなのですが、春夏秋冬それぞれに美しい風景を鑑賞できるように、梅林やカキツバタ園、菖蒲田や桜の木々、そして随所にカエデが植えられるなど、日本の四季のハイライトを印象付ける作庭がなされているのがとても心を揺さぶります。小石川後楽園は、そうした伝統的な風情に加えまして、背後に借景のように東京ドームを見通すのも特徴です。日本における絶対的な中核としての風格に加えて、世界都市としてグローバルな影響を与え続ける現在の東京の姿を象徴する風景であるようにも思います。庭園を周遊しながら、季節の美しさと都市庭園としてのしなやかさに酔いました。
小石川後楽園の探勝の後は、外堀通りを沿いを東へ歩いて、水道橋駅へと向かいました。神田川は、現在では大都市の中を縫うように進むゆるやかな水路としてのたたずまいを見せるものとなっていますが、藩政期においては、上流部は都市に生活用水を供給する重要な用水として、また下流部は都市の経済を支える物流の要として重要な役割を担っていました。水道橋の手前に「市兵衛河岸」とのタイトルのある説明版を見つけました。江戸時代にこの河岸の近くに「岩瀬市兵衛」の屋敷があったことに因む命名であったようです。近代以降は、現在の遊園地部分にあった砲兵工廠へ物資を供給する荷上場としてもにぎわったといいます。今日ではレジャーを楽しむ平和的な場所へと変遷していることとは一線を画するような史実も残るエリアであることも、私たちは記憶にとどめておく必要があるようにも感じます。 |
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