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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#74 日本橋人形町周辺を歩く 〜歓楽街の風情を残す都心の街並み〜 (中央区) 2019年3月2日、墨田区北部の向島周辺を周回した後隅田川沿いに南下、両国まで来ていた私は、地名の由来となっている両郷橋を渡り、中央区日本橋エリアへと進みました。両国橋は、1686(貞享3)年に国境が変更されるまで、武蔵国と下総国との境に架かる橋であったことからその名があることはよく知られていることと思います。両国地域を象徴する国技館や軍配などを意匠に取り込んだ橋上は国道14号を通していまして、多くの車両が通行していきます。隅田川は相変わらず春の日差しを受けてその川面を穏やかに輝かせていました。
中央区に入り、日本橋を中心とする街区を構成する隅田川の右岸を歩きます。この地域に「日本橋」を冠する地名が多いのは、戦後に旧日本橋区と旧京橋区が合併して中央区が発足するにあたり、日本橋側が地名に日本橋を残すよう希望したためです。日本の道路の起点である日本橋は、藩政期以降、有数の歓楽街・商業地として発展し、関東大震災や第二次世界大戦による荒廃を経ながらも、その都度復興し、東京都心を代表する繁華な街並みを維持してきました。隅田川を渡る首都高速の6号線と7号線が日本橋エリアをかすめるあたりに、浜町公園があって、高度に市街化された地域の中で貴重なオープンスペースとなっています。関東大震災の復興事業の一環として建設されたその公園は、周囲を構想のビル群に囲まれ、隅田川に面した部分を高速道路の高架橋によって遮られながらも、都心にあって頭上に大空を体感できる空間として、多くの区民に親しまれているようでした。 浜町公園の西側の正面入り口から南西方向へ伸びる道路は明治座通り。明治座に面することからの命名です。銀杏の並木は芽吹きを前に、春の日差しをいっぱいに受けて穏やかなシルエットをつくっていました。明治座の前には戦災による被災者を慰霊する「明治観音堂」の小さなお堂がひっそりと建てられていまして、70年以上前の惨劇を今に伝えていました。清州橋通りの大通りを横断し、さらに直進しますと、かつて掘割として形成された浜町川を暗渠化した浜町緑道公園と直交します。勧進帳の弁慶像がある一角から南はソメイヨシノの並木となっていまして、満開時には桜の波にうずもれる光景が想像されました。都心を貫く緑のプロムナードを歩きながら、新大橋通までかつての人工水路跡を辿りました。新大橋通り沿いには、トルナーレ日本橋浜町をはじめとした高層ビル群が屹立していまして、かつての日本橋区の中心区域として繁華な街並みを形成してきた地域の今を実感します。付近の地名を拾いますと、浜町や中洲、蠣殻町といった、浜辺を彷彿とさせるものはある中で、藩政期以降は活気のある商業地となった史実は、この地域が海岸の湿地性の土地からいかに急激に大都市へと変化したかを物語っているといえるのではと思い当たりました。
現代的なビルに囲まれるようにしてある参道を進んだ先に鎮座する水天宮を参詣した後は、人形町通りを北へ、日本橋人形町方面へと歩を進めました。江戸時代初期の人形町は、江戸でも唯一の歓楽街(いわゆる「吉原」で、1657(明暦3)年の「明暦の大火」後は浅草寺北の日本堤付近に移転)があり、浄瑠璃の芝居小屋や見世物小屋もあって、たいへんな賑わいを見せていたといわれています。人形町の名は、そうした興行に携わる人形師たちが多くこの町に住んでいたためとされます。そうした来歴を持つ人形町は、かつてのかすかな雰囲気も残しながらも、日本橋という商業地としての地域性も浸透した、重層的な都市景観が広がるエリアとなっているといえます。とりわけ、メディアでもしばしば取り上げられる甘酒横丁の界隈は、昔ながらの伝統を今に伝える老舗も多くて、江戸における穏やかな下町情緒に触れるべく、多くの人々がそこを訪れていました。江戸を代表する商業エリアとして都市基盤を整えてきた場所でありながらも、一歩大通りから外れますと懐かしい雰囲気の建物にも出会える風景が、古くて新しい日本橋の味わいであるように感じられます。 人形町、甘酒横丁の散策の後は、人形町交差点を西へ折れて、小舟町、江戸橋北の交差点を経ながら、日本橋の北詰へと進みました。3月に入ったとはいえ、夕刻が近づく時間帯はいまだ日は低く、ビル群にさえぎられる歩道は徐々に明るさを減じていました。江戸橋北交差点の宙空を首都高速がまたぎ、そして日本橋川の上を蓋をするようにやはり首都高速の高架が進む光景は、良くも悪くも高度経済成長がどのようなものであったかを何よりも雄弁に物語っています。日本の道路網の中心としての威容を示すその石橋は、高速道路の直下にありながらも、その風格を十二分に備えていまして、今日も多くの自動車や歩行者を迎え入れています。今後は首都高速を日本橋のある部分について地下に移設することが計画されています。その竣工にはかなりの年月を要することが見込まれますが、日本橋がその上にある大空を取り戻した時には、どのような表情を見せることとなるのでしょうか。
両国から浜町公園を経て人形町界隈を捕捉しながら日本橋へと進んだ彷徨は、武家政治の中心地として、目まぐるしい変貌を遂げ、その基盤を土台として世界的な近代都市へと昇華した、この町の道筋を忠実に感じることのできる道のりであったように思います。江戸の町がその第一歩を踏み出した時、江戸湾に望む浜辺であった日本橋エリアですが、その後の開発で海岸線は途方もない彼方へと去って、新たなウォーターフロントの町が生み出されています。そうした江戸・東京の臨海部の変遷を紐解くとき、日本橋地域の輝きはいっそう華やぎに満ちたもののように感じられます。 |
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