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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#75 六義園、谷中から入谷へ 〜陽春の穏やかな下町の風景〜 (文京区・荒川区・台東区) 2019年3月24日、埼玉県小川町での散策を終えた私は、そのまま東上線で都心へと移動し、山手線・駒込駅へとやってきました。駒込はソメイヨシノの発祥地とされる染井の最寄りで、駅周辺のロータリーなどにはソメイヨシノが植栽されています。それらの桜木は満開を間近に控えて、ビルの谷間に注ぎ込む春の日射しを浴びていました。駅に至近の六義園へ向かいます。この時期の六義園は名物のシダレザクラを見ようと、例年多くの人々がそこを訪れます。北側の染井門から入園し、常緑樹が暗い影をつくる道を進んだ先に、そのシダレザクラはありました。くっきりとした春空から降りる日の光を受けて、迸る桜色は最上のしなやかさを体現していました。
木々の若芽やソメイヨシノ、そしてヤマブキなどの春の花が次第に揃い始めてきた園内を周遊し春本番の気配を感じます。徳川五代将軍綱吉の側用人であった柳沢吉保が設計した回遊式築山泉水庭園は、いわゆる大名庭園の代表的なものの一つとして、四季折々に豊かな風情を見せています。大きな築山である藤代峠の上からの眺望も、庭と背後の都市の風景が重なる、江戸と東京をつなぐような、象徴的な風景であるといえます。庭園の散策の後は、上富士前交差点から東へ、不忍通りを歩きます。通りの名前はその東端に上野の不忍池があることによるものですが、沿道のほとんどは文京区内で、目白台から上野までの住宅地域を環状に貫通しています。ゆるやかにカーブする通りの両側には中層のマンション建築が林立していまして、背後の戸建ての住宅街を隠していました。道灌山下交差点から右折し、すぐの場所から南下する「よみせ通り商店街」へと入っていきます。このあたりの不忍通りには「坂下」と名乗る交差点名が散見されます。これは通りが台地である本郷台から旧藍染川のつくる谷へと下っていくためで、その谷間に沿って谷中地区の町並みが広がります。不忍池もこの谷がつくる低地に存在しています。 よみせ通りから東へ、谷中銀座へと続く界隈は昔ながらの下町の商店街が味わいのある雰囲気を醸していまして、上野の台地へと上る石段、通称「夕焼けだんだん」の上からはその様子を穏やかに眺めることができます。春ののびやかな日射しも徐々に傾き始める時間帯で、下町情緒を求めて行き交う多くの人々の影も石段に長く映って、長閑な町並みをいっそう平穏なものにしていました。「夕焼けだんだん」の坂上は、住所的には隣の荒川区内となっていまして、日暮里エリアと交錯する場所となります。都内では希少な富士山を実際に望める「富士見坂」として有名だった(現在は見られなくなっている)諏方神社前へと続く諏訪台通りは寺院も多く立地する閑静な住宅地となっていまして、諏方神社の境内からは、東側の崖下を貫通する山手線や京浜東北線などのたくさんの鉄路の先に、日暮里地域の都市的な景観を俯瞰することができます。
諏訪台通りを南に戻り、夕焼けだんだんの坂上から反対方向の路地を歩きます。朝倉彫塑館の前を通るこの通り沿いも、寺院や古い町屋造の建物が並ぶ町並みが連なっていまして、戦前の住宅街の姿を今にとどめる景色が大変印象に残る巷が残されていました。住居表示は再び谷中の範域となり、上野寛永寺の子院が集まるエリアから、幕府の政策や明暦の大火に伴う移転などを経て多くの寺院が集積することとなった姿が今に伝えられる地域の特徴をありのままに感じられました。谷中霊園の西側を貫通する都道452号を経て上野桜木交差点へと至り、言問通り(都道319号:環状三号線)を東へ、鶯谷駅方面絵へと歩を進めました。旧吉田屋酒店の瀟洒な商家建築を一瞥し進み、寺院の多い近隣をさらに辿っていきますと、やがてJR線の鉄路を跨ぎ、正面に東京スカイツリーを望む中小のビルが林立するエリアへと入ります。跨道橋は「寛永寺橋」で、谷中からこの橋へと下る坂も「寛永寺坂」と呼ばれます。坂の下を鉄路が通り、都市的な土地利用が卓越した現代にあっても、藩政期における一大ランドマークであった寛永寺の存在感を思わせます。 言問通りをさらに進みますと、朝顔市で知られる入谷鬼子母神の門前へと到達します。寺院としての正式名称は真源寺といい、鬼子母神を祀ることから、この通り名で広く知られています。1659(万治2)年に日融上人により建立されたと伝わります。創建時は周辺が「入谷田圃」とも呼ばれるほどの田園風景が広がる場所であったようですが、市街化が進むにつれて大都市の密度の高い大都市然とした景観の中に埋没していますが、明治に入り恒例となった朝顔市は大正期に入り一度途絶えながらも、1950(昭和25)年に復活し、下町における初夏の風物詩となっています。
入谷鬼子母神の近くの入谷交差点は昭和通りとの交点で、周囲は夥しい数の交通量を通す現代の大都市の中にありました。日没が近い時間帯となっていたこともあり、日比谷線入谷駅から帰宅の途に就きました。六義園から谷中、そして入谷へとつないだ今回の散策は、文京区から台東区へ、都心の近傍にありながら穏やかな住宅地となっている地域をめぐるものとなりました。谷中周辺は、第二次世界大戦の被災を免れたこともあり、昔ながらの家並みが残る場所で、そうした昔語りの光景が今日においても多くの人々を惹きつけることがよく分かりました。そうした懐かしい風景が、春の伸びやかな空気と程よく調和していました。 |
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