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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#93 九段・飯田橋周辺散歩 〜”江戸の坂”の風情を歩く〜 (千代田区) 2021年3月18日、ソメイヨシノが3月14日に開花していた東京の九段・飯田橋あたりを散策しました。東京メトロ半蔵門駅から、一番町あたりのマンション街を通り、千鳥ヶ淵緑道へ。桜の名所として知られる千鳥ヶ淵はまだ多くの木が咲き始めといった印象で、五分咲き近くなっていた、靖国神社境内の桜の標準木とは好対照をなしていました。靖国神社を出て九段坂を下り、九段下交差点で靖国通りに交差する目白通りへ。ここから、武蔵野台地の一部である淀橋台の東の端を反映する坂道が現代都市となった街の中にも残されています。
九段北一丁目交差点から西へ登る坂は、「中坂」。坂道は九段坂と北に隣接する冬青木坂との位置関係から名付けられたものと推定されているようです。坂の両側にはあまねくビルが建っていて、築土神社もそのビルの谷間に鎮座する形となっています。和洋九段女子中学・高校の建物も中坂と冬青木坂とに挟まれて立地しています。冬青木坂は中坂と比べると細道の風情で、在フィリピン大使館公邸は安田財閥関係の私邸であったこともあって、通りに面する板塀も風情も柔らかな印象を受けます。これらの坂の坂上から北へ、暁星高校と小学校との間を下る坂が二合半坂。この坂から日光山が半分ほど見え、富士山を十合とした場合日光山を五合と見立て、その半分であることからの命名であるとされているのだそうです。大神宮通りを西へ進むと、早稲田通りへと接続し、JR飯田橋駅前へと至ります。外濠に面した駅の近傍には、江戸城外郭門のひとつであった牛込見附跡が残ります。門を構成した石垣が良好に保存されていまして、門を普請した「松平阿波守」の文字が刻まれた岩が発見されています。 早稲田通りを戻り、富士見町教会の瀟洒な建物の脇を西へ、北側に再開発ビルの「飯田橋グラン・ブルーム」が建つ通りを進み、3つめの角を左へ進む登り坂は「幽霊坂」と呼ばれます。かつては狭く、鬱蒼と道を追おう樹木のうら寂しさなどからその名が付いたともされるその坂道は、現代的な建築物群に囲まれて、明るく現代的な雰囲気です。坂の途上には、二カ所ほど左に下る横道があって、それぞれ同様に「幽霊坂」の異名を持ちます。最初の坂道は同様に都市的な景観を呈していますが、2つめの坂道は曲がりくねった細い道で古い建物も多く、幽霊坂の響きを彷彿とされる巷の中にありました。
最初の幽霊坂の坂上に出て、西へ緩やかに下る道は「富士見坂」。藩政期には、この辺りを含めた九段坂上の西端から富士山がよく見えたため、その名がついたようで、周辺の地名である富士見の由来も同様です。靖国神社北側の土塀の落ち着いた佇まいが、北側の都市的な高層建築物群の景観と好対照をつくっていて、坂道の豊かな景色を造り出しているように感じられました。坂道の突き当たりは、外濠公園で、眼下には中央線の鉄路が走ります。外濠を挟んだ対岸の市ヶ谷辺りの風景も相まって、江戸から東京へと移り変わったこの大都会の歴史を見通すことができるような風景です。公園内には多くのソメイヨシノが植えられていて、枝にはたおやかに桜の花が輝いていました。 富士見坂の西端から南へ、靖国通りへと登る坂が「一口坂」です。「ひとくちざか」と呼称されるこの坂は、本来は同じ字で「いもあらいざか」と呼ぶのが正しいと言われているのだそうです。「いもあらい」とは疱瘡のことで、その疱瘡の治癒に霊験のある一口(いもあらい)稲荷が坂下に祀られていた(現存しません)ことが、坂道の名の元となったとされています。両側に中高層建築物が立ち並ぶ中にソメイヨシノなどの桜の街路樹が植えられている靖国通りを西へ歩いて、市ヶ谷駅前まで至り、千代田区エリアの坂道をめぐる彷徨を終えました。
春たけなわの東京からの帰路では、渋谷スクランブルスクエアの展望台「渋谷スカイ」に立ち寄り、360度の眺望を確認しました。渋谷駅周辺で続く再開発の現状や、その名のとおり渋谷が谷族にあるという地形、そしてただただ広い関東平野の中心に展開する、現代の東京大都市圏の態様を実感しました。 |
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