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HIROSHIMA REVIEW

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#14 平和大通りを歩く 〜平和都市を象徴するブールバール〜

 この原稿を書いている現在(2016年9月)で、広島市に関係した地域文は2007年9月に訪れた分の作品化を終えています。その後は2014年の12月に広島市を訪問していまして、いずれその時のことは記録に残すこととなると思います。一方で、2007年以前に広島を歩いて撮影してきた写真やそのときの感触によって、文章として起こしておきたい題材が1つありました。広島市街地を東西に横断し、市民の憩いの場として、平和都市の象徴として多くの人々が集まる「平和大通り」です。1回のフィールドワークで全線を歩いたわけではなく、複数の訪問での記憶をつなぎ合わせてのものとなります。

鶴見橋東詰

鶴見橋東詰・被爆ヤナギ
(南区比治山本町、2005.2.11撮影)
京橋川

鶴見橋より京橋川を眺める(上流方向)
(中区鶴見町/南区比治山本町、2005.2.11撮影)
平和大通り

平和大通り・鶴見橋西詰
(中区鶴見町、2005.2.11撮影)
比治山

鶴見橋西詰より比治山・京橋川を眺望
(中区鶴見町、2005.2.11撮影)

 平和大通りの東の起点は、市街地東部の丘陵・比治山に接する鶴見橋です。現在の橋は1990(平成2)年に平和大通りの幅に合わせて車道橋として架け替えられたもので、それまでは人道橋でした。橋の名前は、藩政期に広島藩によって付近に飛来する鶴を見るために鶴見小屋が設けられていたことによるものであるようです。原爆投下時は、この橋の西詰で建物疎開作業が行われており、この作業に従事していた多くの方々が犠牲になったことが、橋の近くに設置された説明版に記載されていました。原爆の被災でも落橋しなかったため、市街地から郊外への避難路ともなったようです。橋の東詰には被爆に耐えたシダレヤナギが生きながらえていましたが、2007年に惜しまれながらも枯死したようで、現在は同じ根から成長した株がいのちをつないでいるとのことです。自動車も通行できるようになった橋は、併せて整備された比治山を貫通して段原地区へ続く市道(比治山東雲線)と接続し、大都市の幹線交通網の一翼を担っています。鶴見橋上からは、京橋川両岸の市街地や比治山の山並みを穏やかに望むことができました。

 平和大通りは、戦時中に焼夷弾などの被弾による火災の延焼を防ぐために、建物を撤去して(この作業が先に記載した「建物疎開」です)形成された防火帯を利用して建設されています。戦後の復興計画の中で、平和都市を象徴する通りとして計画され、整えられました。中央に主道があり、その両側に幅約20メートルの緑地帯があり、その外側に副道が並行する構造です。鶴見橋付近からは、中央車道の向こうに西側の山並みを見通すことができまして、その山並みと緑地帯とがつながるような視覚効果も相まって、現代都市におけるグリーンベルトとしての機能も意図されていることも感じさせました。そしてそれは、広島市街地の東西の都市軸としての結節性も付与されていることが実感できる風景でもあるわけです。建物疎開の現場として多くの犠牲を出した現場として鎮魂と平和を祈る場所となり(緑地帯内では多くの慰霊碑が建立されています)、原爆の惨禍から復興した広島市街地の活力を実感できる場所でもある平和大通りは、このまちにとってかけがえのない財産であることが理解できます。

旧国泰寺愛宕池

旧国泰寺愛宕池
(中区小町、2007.9.4撮影)
白神社

白神社
(中区小町、2007.9.4撮影)


平和大橋・東詰より撮影
(中区大手町三丁目、2007.9.4撮影)
平和記念公園前

平和大通り・平和記念公園前
(中区中島町、2007.9.4撮影)

 平和通りを西へ歩を進めて、平和記念公園に程近い、鯉城通り付近まで来ますと、平和大通りのある位置の歴史的な側面が分かる場所に到達します。緑地帯内に、広島市指定史跡の「旧国泰寺愛宕池」があります。国泰寺の鎮守愛宕社があったことから愛宕池と呼ばれました。この周辺一帯、ANAクラウンプラザホテル広島のあるあたりまでは旧国泰寺の境内で、広島城下町建設初期の貴重な遺構となっています。隣接する白神社(しらかみしゃ)には、やはり市指定史跡及び天然記念物の「白神社の岩礁」があります。この岩礁は広島城築城当時(1591)年の海岸線であったあたりに露出していたもので、旧国泰寺愛宕池の岩と一体のものであるとのことです。つまり、藩政期の初期まではこの平和大通りあたりが海岸線であったということです。市街地のど真ん中のこの場所に、かつての海岸線を示す痕跡があることは、太田川の形成した三角州の形成史や、その後の干拓の歴史を物語るものとして、たいへん貴重なものであるといえます。広島市役所のある付近の地名「国泰寺町」は、新たに干拓によって開かれた新開地に、近接していた国泰寺の名前を充てたものです。白神社とともに市街地のランドマークであったという国泰寺は、原爆の被災や平和大通りの建設などの開発が進んでことに伴い、西区己斐上三丁目に移転しています。

 平和大通りはもうひとつの平和祈念の場である平和記念公園の南を通り、本川、天満川を渡って太田川放水路を越えて、JR西広島駅前で宮島街道に連接します。西端の500メートルほどは広島電鉄宮島線の軌道敷ともなっており、多くの路面電車が行き交っています。緑地帯には被爆当時の樹木が残存するほか、県内外から寄贈された木々も多く植栽されています(供木運動)。広島における一大イベントである「ひろしまフラワーフェスティバル」の開催地などとしても親しまれます。今後も平和大通りが、平和を希求する市民をはじめとした多くの人々にとって大切な存在であるとともに、広島の町を支える貴重な「ブールバール」として生き続けていくことと思います。

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