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点描千葉市とその周辺


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#9 千葉市街地を歩く(前) 〜駅前から猪鼻城跡へ向かう〜

 JR千葉駅の改札を出ますと、駅前に集積したデパートなどの建築物群に絡みつくように宙空を行くモノレールの風景が目に入り、並々ならぬ大都市の玄関口に歩を踏み出したことを実感します。駅前には多くのバスやタクシーが出入りして、人の流れも多くて、活気ある市街地が形成されています。JR千葉駅周辺、京成線も含めた駅の配置は、かなり複雑な変遷過程を経ているようです。細かい記述は省略しますが、もともとの国鉄千葉駅は現在の市民会館付近、要町の場所にあったのだそうです。そうした視点で市民会館前を地図で確認しますと、確かに市民会館を中心に放射状に街路が収束している様子が見て取れます。さしずめ、「千葉銀座通り」と呼ばれる街路が駅前通りとしての役割を担っていたのでしょうか。現在の駅前大通りはJR総武線と内房・外房線とが「人」の字型に分岐する間を東方へまっすぐ進むように作られていて、千葉三越や東電があるあたりまでは金融機関が集まっている様子が見て取れ、駅前の業務街が形成されていることがわかります。

 2007年9月23日、駅前のホテルに宿泊していた私は千葉駅構内のコインロッカーに荷物を置いて、千葉市街地のフィールドワークに出発しました。駅前は前述のとおり業務系のビルやホテル、デパートなどによって充填される業務街となっているものの、駅前大通りの幅員が広く、また歩道もゆったりと確保されているため、見た目の雰囲気はゆったりとした印象です。ここには空を覆うモノレールもありません。富士見東電前交差点を西へ向かい、JRと京成線のガード下手前を東へ入りますと、車両一方通行の「富士見商店街」へと至ります。この狭い商店街の道路は国道14号の路線指定を受けていることでも知られているようで、現在通りの両端で商業系ビルの建設・開業が進んでいるようです。

千葉駅前

JR千葉駅前、モノレールの見える景観
(中央区新千葉一丁目、2007.9.23撮影)
富士見商店街

富士見商店街
(中央区富士見二丁目、2007.9.23撮影)
銀座通り

千葉銀座通りの景観
(中央区中央一丁目、2007.9.23撮影)
美術館

千葉市美術館、旧銀行建物
(中央区中央三丁目、2007.9.23撮影)

 ところで、振り返って千葉市の生い立ちについて考えてみたいと思います。私が小学校高学年から中学生の頃(1980年代後半)、千葉市に関して学習した地理的な内容は、製鉄関連の工場や火力発電所などが立地する一大工業地域(京葉工業地域)として高度経済成長期以降著しい成長をみた地域である、というものでした。現在では工業地域としての性格に加え、幕張新都心などに代表される業務核を擁する首都圏の中核都市としての都市基盤を備えた都市としてのイメージも定着しているように感じられます。東京の衛星都市的な性格も併せ持ちながら、県庁所在都市としての中心性を生かし、東京都の密接な結合関係を維持しつつ、相対的に独立した都市圏を形成する都市という見方でほぼ間違いはないでしょう。

 富士見商店街を抜け、モノレールの下をくぐって大通りを横断しますと中央公園とパルコが立地する一角に至ります。中央公園には多くのテントが張られ、イベントが開催されようとしているところのようでした。東側の街路は前述した「千葉銀座通り」で、この日はフリーマーケット風に街路に古着などを並べている光景が印象的で、たくさんの人々が通りを歩いておりました。商店街の入口には千葉銀座を示すアーチがあり、「2007年 みんなのちばが動き出す きぼーる誕生!」と書かれた横断幕が掛けられていました。このことについては、後で触れたいと思います。通町公園や千葉神社を経て、旧川崎銀行千葉支店をそのまま建物内部に「保存」している中央区役所・市美術館などを一瞥しながら、猪鼻(千葉)城跡の高台に歩を進めます。

市場町

市場町付近の景観
(中央区市場町、2007.9.23撮影)
郷土博物館

千葉市郷土博物館
(中央区亥鼻一丁目、2007.9.23撮影)
神明社

神明社(猪鼻城本丸跡)
(中央区亥鼻一丁目、2007.9.23撮影)
お茶の水

お茶の水
(中央区亥鼻一丁目、2007.9.23撮影)

 猪鼻(亥鼻)城跡は、源頼朝の挙兵に際しいち早く参陣し、大きな影響力を持った千葉介常胤の父常重が、1126(大治元)年に拠点として以来、胤直が支族の原胤房に追われるまで13代330年にわたって両総に覇を唱えた千葉氏の本拠でした(『千葉県の歴史散歩』(山川出版社)より引用)。千葉市街を見下ろす台地上にあって、北は都川が天然の水路となり、西は急な崖、南は複雑な谷間という、まさに「天然の要害」でした。現在は城の天守閣風の概観を見せる市郷土博物館が立地しています(猪鼻城がそのような外観であったわけではありません。まったくのでたらめです)。博物館の北西側一帯が本丸跡で、北西隅に祀られた神明社のあたりが物見台で、東京湾を一望することができたのだそうです。多くの建物によって充填され、かつ埋め立てによって海岸線が遠のいた現在では望むべくもありませんね。

 豊かな緑に溢れた現代の公園としても快い空気を提供する城跡を北へ進み、階段を下っていきますと、「お茶の水」と呼ばれる小さな祠と湧水(現在は水道)があります。この水場は、猪鼻城の水手と伝えられるものなのだそうです。再び中央区役所東の大通りに戻り、県庁方面へと向かいました。猪鼻城のお膝元であるこのエリアは、千葉市統治時には大いに栄えていたとも伝えられ、町場としての千葉の原点ともいえる地区は、現代においても簡単なアーケードのようなものが歩道に設置してあったりと、一定の商業地域としての色彩を帯びているようでした。しかしながら、現在ではその多くが風化したような雰囲気を見せているように見えたことは気がかりです。

<後編>へ続く

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