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#22 碓氷峠、旧中山道を歩く 〜旧街道が越える山道の実際〜 2020年10月21日、JR信越本線の横川駅を降り立ちました。1997(平成9)年10月1日の北陸新幹線(当時は長野駅まで)の開業に伴い、横川駅と軽井沢駅の間の鉄路は廃止され、バスに転換されました。それ以降、横川駅は群馬県内における信越線の終着駅となり、山間のローカル駅の風情が濃厚な駅となりました。廃線跡は「アプトの道」の名で遊歩道として再整備されています。旧中山道における東国の入口のひとつであった碓氷峠に設けられた関所跡を探訪した後、その「アプトの道」を辿りました。
碓氷峠の交通の要衝としての歴史は古く、古代の東山道の時代から中山道を経て、近現代の鉄道のルートとなるまで、ここは一貫して要路における壁となり続けてきました。アプトの道の途上には旧変電所のレンガ製の建物(旧丸山変電所)の建物が残り、そうした変遷の状況を今に伝えています。かつての鉄路の一部をトロッコ列車線として残した部分を歩いた後、旧中山道の宿場町であった坂本宿の町並みへと進みました。碓氷関所を越えた先にある坂本宿は、中山道における最大の難所の一つである碓氷峠を前に休息をとる場所、または長い峠道を越えて身支度を調える場所として、重要な町場でした。その重要性から本陣が二か所存在していました。上の本陣と呼ばれた佐藤本陣跡には、明治期に立てられた旅籠の建物があって、往時を偲ばせます。ゆるやかに上る坂本宿の風景を確認しながら、国道となっている舗装道路から別れ、いよいよ旧中山道の山道の部分へと踏み入れます。 碓氷峠は群馬県側が急傾斜のいわゆる「片峠」となっています。特に、坂本宿から刎石山(はねいしやま)までの区間は急登となり、約700メートルの道のりの間に300メートルもの高さを上る必要があります。杉木立の中、急勾配の山道をひたすら進み、石積みや地蔵尊などが残る道を歩いて、坂本宿を見下ろすスポット「覗(のぞき)」へ。一直線にのびる街道に沿って計画的につくられた坂本の町並みを俯瞰することができます。四軒茶屋跡を過ぎてある四阿で小休止しつつ、旧中山道の山道を辿ります。急坂を登り切りますと、尾根筋の緩やかな山道を進むこととなります。中途には、1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原攻めの際、北陸・信州軍を防戦しようと道の両側を狭めようとした跡とされる「堀切」などの歴史的な事物も存在していました。急崖となる場所に建てられたという馬頭観世音の前を通り、落葉広葉樹の穏やかな森の中を進みます。山肌を削る小流や、溶岩噴出物により平坦な峠付近の地形が形作られたことを物語る岩肌などを観察しつつ、山中茶屋跡、陣馬が原、碓氷川水源地などを経て、ようやく峠にある熊野神社に辿り着きました。午前9時50分過ぎに横川駅を出て、碓氷峠の到達は午後1時40分頃で、約6.6キロメートルを4時間で歩いた道のりとなりました。
この神社はひとつの宮ですが、参道が県境となっているため、群馬県側は「熊野神社」、長野県側は「熊野皇大神社」と2つの宗教法人によって維持されています。境内の木々は徐々に色づき始めていまして、初秋の装いをその色合いに秘めていました。信州側の宿場町である軽井沢宿へはゆるやかな下りで、およそ2.6キロの所要です。 ※碓氷峠に着いた後、小休止をした茶屋で、「ヤマビルはいなかったか」と心配されました。碓氷峠には人の血を吸うヤマビルが生息しているとのこと。この日は既に秋も深まってヤマビルの活動時期ではなかったことが幸いしました。季候がよい時期はヤマビル対策が必要なようです。 |
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