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関東の諸都市・地域を歩く


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#76 偕楽園から石岡へ 〜梅咲く名園と旧国府を基礎に持つ町を行く〜 

 2012年4月1日、日本三名園の一つ、訪れた偕楽園は梅がまさに見ごろを迎えていました。偕楽園は梅の名所としてあまりに著名です。約13ヘクタールの園内には、およそ100の品種の3,000本の梅が植栽されているのだそうです。偕楽園の入園料は無料です。これには偕楽園造園の理念と関係しているようです。水戸藩九代藩主徳川斉昭は、1842(天保13)年に、千波湖を望む高台の七面山を切り開き庭園をつくりましたが、その際領内の民と偕(とも)に楽しむ場としたいと願い、「偕楽園」と命名したといいます。そうした開園の経緯は、今日まで受け継がれているというわけです。さまざまな種類の梅がさわやかに香り、西側の杉林や南面する眼下の千波湖の風光も相まって、とてもさわやかな風景を満喫することができます。千波湖周辺の拡張エリアにも梅林があって、紅白の綿菓子が敷き詰められたようなあたたかい景観も見下ろせます。園内にある好文亭(入館は有料となります)からの眺望も見事です。前年3月の東日本大震災で被災し、園内の南側や好文亭は立入禁止となっていましたが、この年の2月に全面復旧を果たしていました。今後も水戸を象徴する美しい公園として、多くの人々を癒す存在となっていくことでしょう。

偕楽園から望む千波湖

偕楽園から望む千波湖
(水戸市常盤町一丁目、2012.4.1撮影)
好文亭

偕楽園・好文亭
(水戸市常盤町一丁目、2012.4.1撮影)
好文亭からの園内眺望

好文亭から偕楽園内を望む
(水戸市常盤町一丁目、2012.4.1撮影)
拡張部の梅林

偕楽園から眼下の梅林を望む
(水戸市常盤町一丁目、2012.4.1撮影)
偕楽園・梅林

偕楽園・梅林
(水戸市常盤町一丁目、2012.4.1撮影)
竹林と杉林

偕楽園・竹林と杉林
(水戸市常盤町一丁目、2012.4.1撮影)

 偕楽園を後にして一路南へ、筑波山の東麓に位置する都市・石岡へ向かいました。石岡は常陸国の国府が置かれていた場所で、版籍奉還時に現在の「石岡」に改名されるまでは常陸府中、常府(じょうふ)と呼ばれていました。国府があった場所は中心市街地の西に立地する石岡小学校の敷地です。石岡は、市街地周辺には国分寺や国分尼寺跡、総社宮も存在しており、古来より一貫して常陸国の中心として存立してきた由緒を持ちます。藩政期は水戸藩の支藩所在地として過ごし、水戸街道沿線の宿駅として交通や物流上の拠点として成長、以降ローカルな中心都市として変遷し今日に至っています。JR石岡駅の東方、国道6号沿いにある市役所で自家用車を降り、市街地方面へ歩き始めました。訪問当時石岡駅は地上駅で、市街地へは駅付近の歩道橋で鉄路を越えました。現在石岡駅は橋上駅としてリニューアルされています。

 国道355号は中心市街地では旧水戸街道筋とほぼ一致しており、今も昔も石岡の町のメインストリートです。大小の商店やビルなどが林立する、都市らしい風景が整えられています。その中にあって土蔵造りの建物も残されていたのが印象的でした。1929(昭和4)年に石岡は大火に見舞われて中心市街地の約4分の1とも3分の1ともいわれる街区が灰燼に帰す被害を受けています。そのため、古い建物は比較的少なく、大火後に建築された洋風のファサードを持つ看板建築が随所に認められます。

石岡駅・旧駅舎

JR石岡駅・旧駅舎
(石岡市府中一丁目、2012.4.1撮影)
駅前の通り

県道277号(八間道路、御幸通り)の景観
(石岡市府中一丁目、2012.4.1撮影)
中町通り

国道355号沿い、土蔵の残る景観
(石岡市府中一丁目、2012.4.1撮影)
常陸国分寺

常陸国分寺
(石岡市府中五丁目、2012.4.1撮影)

 駅から国道を北へ進み、市街地北縁に位置する常陸国分寺跡へ向かいます。現在鎮座する国分寺はその承継寺院ですが、かつての国分寺は現在のそれを凌駕する規模の伽藍を備えていたことが発掘調査によって明らかになっています。近傍の「いしおかイベント広場」も、かつての国分寺の寺域内でした。明治期以降は製紙工場が操業し、広場は直接的にはその工場の跡地ということになります。広場の彼方には、秀麗な筑波山の山容を望むことができました。

 広場を後にして、若宮八幡宮や青屋神社などを確認しながら市街地を進み、前述の国府跡に比定される石岡小学校付近までやってきました。国分寺跡には、藩政期には常陸府中藩の陣屋があり、その陣屋門は長い時を経て残され市民にとって愛着のある事物として存在してきました。高度経済成長期には自動車交通の増加により石岡小学校地内に移設されましたが(訪問時は校地内に保存された状態を見学しています)、大規模改修を機にかつての位置に近い場所に再移設され現在に至っているようです。南には常陸国総社宮も鎮座し、律令制以降、石岡市の地に常陸国を統括する多くの施設が集中していたことを物語っています。

イベント広場から筑波山を望む

イベント広場から筑波山を望む
(石岡市若宮三丁目、2012.4.1撮影)
石岡の陣屋門

石岡の陣屋門(石岡小敷地内移設時)
(石岡市総社一丁目、2012.4.1撮影)
常陸国総社宮

常陸国総社宮
(石岡市総社二丁目、2012.4.1撮影)
丁子屋

丁子屋
(石岡市国府三丁目、2012.4.1撮影)

 総社宮訪問後、再び石岡のメインストリートである国道355号(中町通りと呼ばれているようでした)に到達し、先述の大火にも残った遺構である丁子屋(まち蔵藍として開放中)の佇まいを確かめながら石岡駅前へ戻り、この日の活動を終えました。大火など多くの困難を乗り越えながら、一貫して地域の中心都市として存立してきた石岡の町は、春のゆるやかな夕日に照らされながら、どこまでも気高く構えているように感じられました。

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