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亀岡、口丹波の城下町をゆく
2016年5月8日、初夏の京都府亀岡市を訪れました。京都盆地から保津峡を越えて存立する同市のある一帯は、 丹波エリアの入口となることから「口丹波」とも呼ばれます。城下町としての佇まいを残す町並みを歩きました。 |
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亀山城跡から旧山陰街道筋へ 〜旧丹波国の中心地を歩く〜 2016年5月8日、晴れわたる京都市中心部のホテルを出発し、京都駅に荷物を預け、嵯峨野線に乗車しこの日の活動を始めました。前日も高速バスで早朝に到着し、嵐山へ向かうため同線を利用していました。この日は嵯峨嵐山駅を越えて、隣の亀岡駅へと進みます。京都盆地と亀岡盆地との間は保津峡によって隔てられています。現在の鉄路はこの狭隘な区間をトンネルで颯爽と抜けていきます。蛇行する谷を越える度に車窓から見える渓谷は、初夏の日射しを浴びて美しい緑に彩られていました。
京都駅からは30分足らずの時間で到着した亀岡駅前は、小規模な商業集積のあるすっきりとした町並みとなっていました。市街地の北辺にあり中心市街地からは離れていること、すぐ北側が桂川(保津川)とその支流の曽我谷川に接するという地形的な制約によるものであることは一見して理解できました。前述のとおり京都駅やその先の大阪方面へのアクセスがよいことから、亀岡市は京都や大阪方面へのベッドタウンとしての側面もあります。地勢的な断絶状況とは裏腹に、亀岡と京都との経済的な結びつきは強いものがあります。そのため、本稿を執筆するにあたり、それを「シリーズ京都を歩く」の一章とするかどうかはかなり悩みました。最終的には、伝統的な地域区分に従って京都のシリーズには含めず、独立した地域文とすることにしました。それは、この亀岡の地が古来より丹波国の国府のあった地と推定されるなど丹波エリアの中心と目されてきたという歴史的経緯と、やはり山城国に属する京都盆地との一定の隔離性を考慮してのものでした。何より、京都から丹波という別の地域へ踏み入ったという語感を感じさせる、「口丹波(くちたんば)」という地域名に惹かれたという動機もありました。なお、現在は京都府内の地域区分では丹波の南部という意味で「南丹(なんたん)」という言い方が支配的であるようです。 しなやかな曲線を描く屋根のラインが印象的な亀岡駅の橋上駅舎を後にして、駅前の通りを南へ進みます。目の前には亀山城跡の緑が広がり、通りも城跡北側に位置する南郷池に突き当たります。南郷池は元来は亀山城の北側を守る外堀で、城の南側、現在の亀岡市街地を含む城下が三重の堀に囲まれていたの対して北側の守りが外堀ひとつであったのは、有事の際は保津川を堰き止めれば北側一帯は大きな池となるよう考案されていたことが現地の説明表示によって説明されていました。今日は緑と水辺が瑞々しい景観を形づくる都市公園「南郷公園」として整えられており、四季折々の花々を楽しんだり、イベント開催の場となったりしているとのことでした。南郷公園の堀端を西へ歩道を歩きます。池の畔には「南郷地蔵」と呼ばれる十一体の地蔵尊が祀られていまして、その上を神木として親しまれるエノキの大木が樹勢を誇っていました。内堀跡に沿って歩き、住宅地の中の小道を辿りながら、亀山城跡の西側の入口まで到達しました。城跡は大正期以降第二次世界大戦前後の一時期を除き、宗教団体・大本の所有となっています。初夏の新緑に包まれた静かな城内を散策しながら、同教団によって修復されたという石垣などを見学し往時を偲びました。
ここまで敢えて言及しませんでしたが、この亀岡市街地の基礎となった城下町の中心にある藩政期の城郭は、「亀岡」ではなく「亀山」城という名前でした。1869(明治2)年に三重県亀山市との混同を避けるために亀岡と改められました。亀山城とその城下町は、本能寺の変で知られる明智光秀が丹波攻略の拠点として1577〜1579(天正5〜7)年に築城したことに始まり、以降安土桃山時代における城下町整備を経て(この時は豊臣方の重要拠点として羽柴秀勝や小早川秀秋などが城主をつとめました)、江戸時代初期に大阪城の包囲網のひとつとして天下普請により完成をみました。西国から京へ至る要衝に位置していたことから譜代大名が配置され、明治まで代々この地を治めました。城下町は京から丹波を経て但馬へとつながる旧山陰街道が貫通していまして、その街道筋を中心に町屋造の建物が残りかつての城下町のよすがを残しています。亀山城跡から北西へ府道402号を進み、南郷公園の北側を東西に抜ける道を横断し、南西から合流する府道6号がこの旧山陰街道筋にあたります。北町から当地出身の事業家・田中源太郎旧邸である楽々荘を一瞥後、府道403号を横断し、安町へ。昔ながらの商店街といった風情の家並みには、法得寺や西光寺の甍が寄り添います。設置されていた説明表示によりますと両山ともに奈良から平安時代創建の古刹で、畿内と関わり合いながら歴史を刻んだ当地の趨勢を垣間見ることができました。 安町の景観を確認した後は旧山陰街道筋を戻り、府道6号を南へ進んでそのまま街道に沿って歩きます。府道6号と402号の丁字路を南西に進み、北町と西町の境界付近で街道は真南に針路を変えています。その場所から古い道標に導かれるように北西に路地を入りますと、地蔵院の堂宇が祀られています。明智光秀築城後現在地に遷座されたこのお堂は、安産祈願成就の地蔵菩薩として広く信仰を集めてきたことが解説されていました。現在の町並みの中に連綿と受け継がれた寺院や町屋の姿に、城下町・亀山の昔日を思いました。 亀岡市街地へ進む 〜旧城下町の中心部を受け継ぐ町並み〜 地蔵院を参詣後は二度山陰街道筋へと戻り、西町方面へと歩を進めます。歩道がカラーリングされた狭い道路に沿って、植木を備えた町屋や、土蔵造の建物などが残って美しい町並みが続いていきます。市街地には随所に鉾蔵と呼ばれる山鉾を格納する蔵が点在しています。10月23日から25日にかけて挙行される亀岡祭(口丹波の祇園祭)で巡行される山鉾です。西町には「八幡山」の鉾蔵があって、山鉾の説明板がその豪華絢爛に装飾された山鉾の姿を伝えていました。八幡山の鉾蔵の南には大圓寺があります。こちらの寺院も明智光秀の築城に合わせ、穴太寺(あなおじ)への道筋にあたる「穴太口」の守りとして移されたものであるようです。寺の南にははっきりと鉤の手が残されていまして、城下町としての痕跡を今に伝えています。寺の西側には惣堀(三重の堀の内一番外側の堀)の跡が南北に貫通しているのも同様です。紺屋町に入りますと、造り酒屋の建物がさらに藩政期以降の町場の伝統を濃厚に感じさせまして、この「亀山」の町の奥深さを体感できます。城下における大火を受けて防火のために勧請されたとされる秋葉神社や、円通寺から本門寺、壽仙院、法華寺と、本町へと続く空間は、亀岡盆地、ひいては丹波地域全体を見据えた中心地のひとつとして生きてきたこの都市の系譜そのままであるように思われました。 穏やかな瓦屋根の町屋から突き出す造り酒屋の煙突が見える風景や、さわやかな初夏の青空の下、しなやかなアウトラインを見せる寺院の家並みを確認しながら、江戸時代を見通すような散策を続けていきます。現代建築に町屋造の建物が混じる本町通りを進み、亀山城の大手門跡にあたる形原(かたはら)神社へ。歴代藩主を祀る当社は、亀山祭の時は鍬山神社(亀山祭はこの神社の例祭)から鍬山宮と八幡宮の2つの神輿が巡行、御旅所として出御されます。旧山陰街道は高札場が置かれた新町から旅篭町、横町へと連なります。北から東へ、旧街道筋に沿ってカーブのようになっている交差点の南は、前出の鍬山神社へと続く道筋です。惣堀を跨ぐ辺りは「出張り」と呼ばれて少し道が曲げられています。正誓寺や宗福寺、専念寺といった寺院が置かれていることも、城下町ではしばしば見られる、防御を考慮してのことであるようにはり思われます。
亀岡の町の中心部は、現在でも道幅が狭く、センターラインの無い道路の両側に家々が迫る景観が支配的で、そうした町割りは藩政期から大きく変わっていないのではないかと思われます。町を歩いていますと先に紹介した八幡山のような山鉾を収蔵しておく鉾蔵にしばしば出会います。このような文化がしっかりと受け継がれていることも、古くからの中心地であるというこの町の自負のようなものを感じさせます。伝統的な建物や寺院が現代の町並みの中に自然に溶け込んで麗しい光景を形成し、それらを碁盤目上に画する狭い道路の向こうには、亀岡盆地を囲むたおやかな山の緑が瑞々しく見通せる。山と川にゆるやかに抱かれた丹波の地域性そのままの風景に、心ゆくまで癒やされました。 浄化最古の薬医門を擁する稱名寺から、聖隣寺、その南を貫流する惣堀跡など、城下町の面影を色濃く残す事物を確認しながら、現代の亀岡市街地を歩きます。新町の交差点と同じく、旅篭町と横町の交差点には信号機はなく、旧山陰街道筋(府道402号)が優先道路としてそれに接続する道路の方に停止義務があるような構造になってるようでした(例えば横町交差点では北東隅がゆるやかなカーブを描くように側線が惹かれていまして、府道がここでカーブしていて、そのカーブに他の道は接続しているといったような形状をなしています)。旅篭町の交差点からは北へ進みました。旅篭町の交差点の北側には城下町を取り囲んだ三重の堀のひとつである「外堀」が設けられていまして、この場所には「古世門」と呼ばれる城門があり、内外を接続していました。
旅篭町から北へ、亀山城跡の東を進んでイオンの前へと至り、亀岡駅へと戻ってこの日の亀岡市街地訪問を終えました。京都や大阪との結びつきを強め、ベッドタウンとしての色彩も強いと評される亀岡の町は、そうした印象とは反対に、伝統的な城下町としての風情をふんだんに残した、しなやかな町並みに溢れた場所でした。そうした雰囲気は、規模は若干異なりますが、中心市街地と郊外の開発エリアで表情を異にしてる三田のそれに類似しているようにも感じられます。初夏の鮮やかな緑と空に抱かれた「亀山」の風景は、丹波の地域性と、城下町の遺風とを存分に漂わせていました。 |
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