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シリーズ京都を歩く
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2.北山散策 |
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第五段 下鴨神社と上賀茂神社 今回の散策は、前回のラストシーン出町柳からのスタートです。賀茂川と高野川が合流する三角形は、穏やかな春の日を受けながら、深く透き通った瑠璃色の流れに向かって整然とした鋭角を示しているようでした。亀の形をしたかわいらしい踏み石の並んだ河床を越えて、下鴨神社へと向かいます。このあたりは、糺ノ森(ただすのもり)と呼ばれています。平安京造営時の樹相を今に伝えるというこの森は、春浅いこの日も、実にたおやかに大地に影を落としています。木漏れ日という光のなんとやさしいことでしょうか。森の中には、下鴨神社へ向かう参道が続き、その東には泉川の流れが寄り添います。新古今和歌集に「石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてそすむ」(鴨長明)と詠まれた瀬見の小川など、糺ノ森は、軽やかな小川の流れる森でした。1994年から下鴨神社の努力によって往時のささやかな流れを取り戻した「瀬見の小川」は森の中をとうとうと流れていきます。また、私が訪問した時には、上流の「ならの小川」も遺構をもとに復元する工事が行われていました。 下鴨神社は、そんな糺ノ森の最奥に鎮座していました。糺ノ森と同じように、下鴨神社もまた、平安以前からこの場所に営まれていました。この地域を本拠とした賀茂氏の氏神で、正式には賀茂御祖(かもみおや)神社と称します。また、上賀茂神社と並び、「賀茂社」と総称されます。平安遷都時に桓武天皇より伊勢神宮に次ぐ地位を与えられました。朱塗りの大鳥居、楼門をくぐると、舞殿、本殿、社殿が、平安の往時の姿を留めるといわれる桧皮葺の美しい佇まいを見せていた。森の静かな雰囲気の中で、その自然の流れに逆らわずに身をおいているように思われた。京都の町が形成される以前の「葛野」(古来の周辺地域の呼び名)とは、このような場所であったのだろうか、そんな思いが過ぎりました。
下鴨神社を後にして、再び糺ノ森の木立の中を進み、式内社河合神社へ。「糺」とは「河合」を意味するそうですが、この小ぢんまりとしたお社は、調停や貴族の信奉が厚い古社という、どことなく豪奢なイメージを微塵も感じさせないたおやかさを持っていました。後鳥羽上皇から禰宜に推挙されたものの、一族の反対にあって隠遁したといわれる、鴨長明ゆかりの神社でもあります。 「葵橋」で賀茂川を渡り、住宅地の中にあってお寺さんが並ぶ寺町通へと歩を進めます。寺町通りには、本満寺、仏陀寺、十念寺、阿弥陀寺、光明寺などの寺院が堂宇を連ねていまして、まさに寺町なのですが、しっとりとした風情、というよりは、どこか庶民的な温かさといった言葉が似合う町並みでした。町外れの今出川通りに近いところにある幸神社(さいのかみのやしろ)は、民家のあわいにひっそりと佇むお社なのですが、猿田彦を祀る縁結びの神様として庶民の信仰を集める、平安時代に遡る古社だというのですから驚きです。庶民の町、歴史の町、その両方が違和感無く、この上ない奥ゆかしさでもって共存しているかのようでもあります。寺町通り周辺の下町的な町並みをぬって、相国寺、上御霊神社の境内を歩いてその結構を楽しみながら、烏丸通、紫明通を経て、再び賀茂川端に出ました。その途中で、パンジーやスイセン、プリムラなどの色とりどりの花が、周辺の家々に飾られていました。ガーデニングブームが定着してきて、どこの地域でも手軽に草花を育てることが多くなりましたが、京都の町屋に鮮やかな春の花々という取り合わせもなかなかよいものだな、と思いました。また、季節は春の彼岸、墓前に手向けられた花もまた、雲ひとつ無い青空にその淡い色彩を伝えているかのようでした。
賀茂川河川敷は、実に爽快な空間でした。風も無く、空にも雲ひとつなく、やわらかな日差しが快い春。そこには、多くの市民が訪れていて、思い思いに、体いっぱいに、春を受け止めていらっしゃいました。東山丘陵の先には、比叡山の山容も春霞におぼろげながらも、はっきりと望むことができます。北大路橋の下をくぐり、しばし賀茂川の春を満喫しました。 賀茂の川 足許にふと はこべ咲く 北山大橋をわたり、賀茂川右岸を賀茂大橋まで進み、そこから上賀茂の閑静な住宅街を歩いていきますと、やがて「社家の家並み」と呼ばれる、清流に包まれた町並みが展開する地域へと入っていきます。「社家」とは、神主や禰宜など、神職に携わる人々の屋敷のことです。明神川と呼ばれる小川に面して、社家の屋敷が連なり、落ち着いた色合いの土塀がつづき、家ごとに小橋が架けられています。町並みの南の入口には、明神川の守護神として信仰されてきた藤木社(ふじのきのやしろ)と呼ばれる祠が、巨大なご神木(楠)を背に勧請されていました。楠と明神川、社家の家並みとがうまく融けあって、ゆたかな景観をつくっています。1988(昭和63)年に、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受け、また京都市によっても上賀茂郷界わい景観整備地区に指定されていまして、古きよき町並みの保全と、町並みと景観の調和への取り組みとが、図られているとのことでした。
社家の家並みを潤した明神川は、上賀茂神社の神域に入ると、楢の小川という名前に変わります。楢の小川は、下鴨神社の瀬見の小川のように、境内を颯爽と流れていきます。6月末に行われる、橋殿上から「みそぎ」の人形が奈良の小川に流される夏越の祓の神事によって、この小川は知られています。なお、楢の小川はこの橋殿で合流する2つの小川の合流後における名前です。これら2つの小川、御物忌(みものいみ)川と御手洗(みたらい)川は、上賀茂神社本殿の東西を流れていきます。つまり、御物忌川・御手洗川→橋殿で合流→楢の小川→明神川という変遷を辿るわけです。神域とその外側、またその事物のシチュエーションによって、名前を変えてシンボライズさせるのが、どこかこの土地らしいようにも思えますが、京の人間ではない私が申し上げることではないかもしれません。 上賀茂神社は、正式には賀茂別雷(かもわけいかづち)神社といいまして、下鴨神社に祀る玉依姫命(たまよりひめのみこと)の子別雷神を祭神とします。下鴨神社と「賀茂社」と並び称され、両社によって京都三大祭の1つ、賀茂祭(葵祭)が行われることはあまりに有名ですね。檜皮葺の社殿、朱塗りの楼門、立砂の境内は、楠や椎などの社叢のなかに慎ましいすがたを見せていました。春の、いっぱいの日の光は、社殿の輪郭を隅々まで際出させるという演出もしているようでした。
御薗橋を渡って三度賀茂川をわたり、北の町外れ、大宮の土地を歩きました。そこは、京都の町の都市化の波を受けて、個人住宅や集合住宅が増え、通り沿いには商店も多い都市近郊の住宅都市の趣でした。このあたりは、京都といえでも日本全国共通なのだな、と思いながらも、「そこは京の都の外だ」などと言われてしまいそうな気もいたしました。付近にはまだ農地も多く残されていて、ビニルハウスも点在していました。「生産緑地地区 京都市」と記された杭が傍らに立てられた畑には、野菜がいきいきと生育していました。また、土居町や旧土居町といった地名が語るとおり、いわゆる「お土居」の遺構が残っています。お土居とは、1591(天正19)年に今日の都市計画を行った際に、外敵の侵入に備えて京の町を囲わせた土塁のことで、現在市内には9か所の遺構が「史跡」として指定されているということを、現地の表示で知りました。 紫竹西通から、今宮神社の境内を経て、船岡山の丘陵を見ながら北大路通へ入り、西へ進みました。北大路通が南へ折れて、西大路通に変わる付近からさらに西へ入りますと、金閣で知られる鹿苑寺が鎮座します。 |
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