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シリーズ京都を歩く
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2.北山散策 |
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第六段 きぬかけの路
京都を思い浮かべる時、それを代表する建造物として、金閣は間違いなく挙げられるのではないかと思います。一般に金閣寺と呼ばれますが、正式には鹿苑(ろくおん)寺といい、金閣と呼ばれる建物は金閣舎利殿という建物です。私が訪れた時は、金閣は修復中で周囲に足場が組まれた状態でしたが、鏡湖池の緑豊かな水面に優雅な姿を映すさまは本当に端正な容貌を見せていますね。三層の舎利殿のうち、一層は寝殿造で「法水院」と称し、二層は「潮音洞」と称して武家造、そして三層は「究竟頂」と呼んで禅宗佛殿造というつくりになっているのだそうです。ちなみに、金箔は二層と三層にだけ塗られています。やはり、頂上の鳳凰を一番金閣らしいと思うのですが、いかんせん、修復中ではその姿を見ることはできませんでした。総門の傍らに、市指定の天然記念物であるイチイガシの古木が佇みます。少なくとも、鹿苑寺が現在のような伽藍配置になった江戸初期から生育していたであろうイチイガシは、照葉樹林を構成する樹種の1つとして、西南日本の広く分布したこの木も、京都周辺では少なくなっているそうです。
鹿苑寺南の道路は、木辻通は、衣笠山の南麓をゆるやかなカーブを描きます。立命館大学のキャンパスの北側を過ぎるあたりから、「きぬかけの路」という名前で呼ばれる道路になるようです。その衣笠山を背景に、足利氏の菩提を弔う寺、等持院があります。足利尊氏が天龍寺の夢窓国師を招いて中興した天龍寺は、尊氏の死後、足利氏の歴代の菩提所となりました。現在でも、足利将軍家15代(5代と10代を除く)の将軍像が、霊光殿に安置されています。夢窓国師によって創造されたといわれる庭園は、西の芙蓉池と東の心学池の2つからなり、基本的に衣笠山を借景とした構成となっています。ただ、現在は周囲の都市化などの影響もあり、その景観にも変化が起こっているのかな、とも感じました。なお、等持院とは、尊氏の忌み名、等持院殿からとられたもので、北山文化を開いた三代義満の忌み名は鹿苑院殿で、その名は金閣に、そして東山文化の中心となった八代義政の忌み名は慈照院殿で、その名は銀閣に、それぞれ継承されています。等持院から再びゆるやかな坂道を登って、きぬかけの路に戻ったのですが、京都都市圏の西部から北部へ抜けることができる利便性も手伝って、趣のある名前に似合わない交通量の多さでした。
石庭に目を奪われてしまいますが、建造物自体も凝ったつくりでありながら、多くを主張しない簡素な造形となっていることにふと気がつきました。そういったコンセプトのようなものが、明瞭に、クリアに、はっきりと伝わってくるかのようです。石庭の横には、次のような説明書きがかけられてありました。「石庭」は「無庭」あるいは「空庭」とも呼ぶべきで、無の中に無限の世界を感じるものである。目で見るのみならず、そういった「空(くう)の存在」に対して、広いキャパシティとリアリティを感じる、と。
都市化による喧騒を別とすれば、たおやかな雰囲気に溢れるきぬかけの路のかいわいを象徴しているのは、ゆるやかな稜線がやさしいイメージをかもし出す山なみかもしれないな、と思います。標高116.4メートルの雙ヶ岡からは、ふもとの御室とその背後の丘陵の風景から、嵐山方面や西京区の方面のなだらかな山なみがすっきりと眺められました。京都中心部方面も、手前の木々に遮られながらも、望むことができます。きぬかけの路を離れて、やっとのことで静寂の中で京都の町を見つめると、改めて、この町の持つ奥ゆかしさに気づかされます。現代と、幾つもの歴史とが層をなして堆積し、コラボレーションを見せる町、京都。それぞれの顔に、素直に向き合ってこそ、はじめてこの町を本当に好きになれるのかな、そう思いました。太陽はいよいよ西の空へ行き過ぎようとしていました。 |
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