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シリーズ京都を歩く
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3.洛中散歩 |
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第七段 京都駅南の“洛中”を歩く
新幹線で京都駅に到着する直前、南の車窓に東寺の五重塔が見えてまいります。1644(正保元)年、徳川家光により再建されたという五重塔は、高さ57メートル。古い塔としては国内で最も高いのだそうです。東寺は、平安遷都(794年)間もなく、都の南の玄関である羅城門の東に造営されたとされ、以来再興を重ねながら、今日まで重厚な伽藍が整えられました。現代の京都の動脈の1つである九条通にも臆することなく堂々と屹立する南大門は、三十三間堂西門を移築したものとのことです。手前に濠、巨大な南大門を中央に配し、背後に五重塔という構図は、幹線道路を目の前にしてもやはり迫力があります。東寺境内では毎月二十一日に弘法市(東寺の縁日)が開催され、毎月20万人ほどが訪れまして、その賑わいは近鉄東寺駅界隈まで溢れると伺っております。
ところで、今回の文章は「洛中散歩」としてまとめています。この「洛中(らくちゅう)」は、京都では市街地の地域区分として用いられる区分で、「洛中」「洛北」「洛南」などというふうに区分します。東寺から西寺公園までお話を進めてきて、この範囲は「洛中」なのか、という疑問をお持ちの方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。洛中は、京都の町の中心部という意味で、現在の京都市の行政区で言えば、上京区、中京区、下京区を指すことが一般的であるようです。現在の京都の市街地は、御所を中心とした「上京」その南の庶民の町「下京」を起源としており、それがすなわち洛中の範域、ということになるでしょうか。町衆によってつくられた学区制小学校である「番組小学校」の分布範囲などがその範囲に近似しているかもしれません。以上のことを勘案しますと、南区内であり、京都の伝統的な市街地である(行政区名とは別の)「上京」「下京」の範囲から外れたこの地域を「洛中」と呼ぶことはない、ということになってしまいます。一方、京都の町の出発点であった「平安京」の都市構造を考慮しますと、羅城門の北に位置するこの地域は、れっきとした“都の内”であり、京都の中心市街地とも密接にかかわりを持ってきた市街地であるとも考えることもあながち無理なことではないのかな、とも思えてきます。京都に縁もゆかりもない私の勝手な妄想以外の何物でもありません。とはいえ、こうした視点から町を眺めて見ますと、京都の近代以降の都市化の動向も絡ませながら、けっこう興味深い町歩きができるような気がいたします。
西寺公園から、大宮通方向へ町屋や近代の集合住宅などが建ち並ぶ路地を歩いていますと、しばしばお地蔵さまをお祀りした小さな祠を目にします。これら「地蔵祠」は、こどもの平安を祈るそれぞれの町内の守り神として、京都では脈々と信仰を集めているもののようで、地蔵盆の祭祀や縁日を通して、地域コミュニティの維持にも重要な役割を果たしているものであるようです。古い町屋の多く残る京都市内、とりわけ「洛中」と呼ばれる地域を中心に、広範かつ高密度に分布しているとのことです。八条通に至り、新幹線の高架に張り付くような位置に、六孫王(ろくそんのう)神社が鎮座します。源義仲が父経基(つねもと)の没後、経基邸内に霊廟を立てて六孫王神祀としたのが始まりと伝えらる古社です。六孫王神社の東、壬生通を北上し、新幹線の下をくぐりますと、JRの在来線と新幹線の間にも、時代の変遷を感じる町屋が連なる街区が存在していました。このことは、地図を見ればすぐに理解できます。しかし、新幹線と在来線は、駅付近では密着しているものと思い込んでいたため、実際に当該地域を歩きますと、実に意外な気持ちでした。鉄道の敷設が、地域のアイデンティティに与える影響を考える時、東寺周辺の地域が「洛南」地域の一部としてより深く認識されるようになったことは大いに関連があることなのではないかとも思われるのでした。人により、時代により、地域をくくるレッテルは移り変わっていきます。それと同時に、地域にはそれぞれの時における記憶もまた刻まれます。羅城門遺址の碑や、新鮮な花が活けられ清潔に保たれた多くの地蔵祠の存在は、そういった記憶の断片といえるのではないでしょうか。 |
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