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シリーズ京都を歩く
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3.洛中散歩 |
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第八段 梅小路公園から四条大橋へ
梅小路公園は、芝生広場やビオトープの森、蒸気機関車館などが備えられた現代の都市公園でした。大宮通から七条通を経て、堀川通を北に折れますと、洛中随一の大寺の1つ、西本願寺の壮大な伽藍が見えてまいります。現在は平成の大改修中で、中心にある御影堂をはじめとした諸坊は覆いをかけられた状態となっていまして、全貌を眺めることはできません。御影堂の東に正対する御影堂門から、大通りとなっている堀川通を隔てた場所に西本願寺の総門が屹立しています。総門から東側には、本願寺の寺内町が連なっています。通りの名前は「正面通」。本願寺の正面かなと思いきや、豊臣家滅亡のきっかけとなった「国家安康・君臣豊楽」の梵鐘で知られる方広寺大仏殿が正面
にあったので、江戸時代になっていつしか「正面通」と呼ばれるようになったものなのだそうですね。本来であれば、エキゾチックなモスクを思わせる建物−西本願寺伝道院−が正面に見えるはずですが、こちらも改修中のようでした。京の町屋の雰囲気を残す正面通の電柱には、「下京區正面通若宮東入四本松町」と書かれた戦前のものと思われる住所標示板が見られました。この「東入(いる)」や「西入」、あるいは「上る(あがる)」、「下る(さがる)」などの表現は、京都にゆかりのある人であれば馴染み深い住所の表示方法です。私も十分に理解していないのですが、以下のとおりの法則で表記されるようです。
そんな高層ビル群が連続する烏丸五条を東へ進み、高倉通と呼ばれる街路を北へ進みました。国道1号線として大幹線と化した五条通から一歩小路を歩みます。と、そこはつい先ほどまでの都市的なビジュアルが嘘であるかのように、これまで歩んできたような、細い街路に奥ゆかしい京の町並みのなかへと誘われます。東寺のあたりでもここかしこに見られた例の地蔵祠も至るところに点在しています。しかも、それらは大切に守られているように見えます。一筋東の堺町通の西側、ごく普通の民家のあわいには、謡曲「鉄輪」に因む「鉄輪(かなわ)ノ井戸」がひっそりと佇んでいました。傍らに謡曲史跡保存会の手になるこの井戸の由来の説明看板が設置されています。それによると、女が男に捨てられたことを恨み、貴船神社へ丑の刻詣でをしてその男とその妻を殺そうとする物語で、この井戸にはこの“鉄輪ノ女”が住んでいた場所と伝えられ、あるいは身投げをした場所だとも伝えられているとのこと。「堺町」という語感は、一時期この周辺が京都における、いわゆる「町外れ」のような地域であったことを予感させます。このような1つ1つのエピソード、1つ1つの街路や街区の名称にも言霊のようなものを宿しているような気がしてきます。高倉通から堺町通を経て北上しますと、やがて四条通のアーケード街へと至り、再び現代の京都へと呼び戻されます。
四条通を横断し、京都の台所錦市場を一瞥しながら、新京極や四条河原町の繁華街を歩きました。行き交う人の数も多く、繁華街をそぞろ歩く人々、祗園や四条大橋方面から流れ来る観光客と思しき集団などが入り乱れて、活気溢れる喧騒を作り出していました。鴨川より眺める京都の町並みは、京都を舞台とする映像には必ずといってよいほど登場する被写体です。たおやかで美しいその町並みのその只中に、数々のドラマや人々の記憶が埋もれているように思えました。 |
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