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シリーズ京都を歩く
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5.西陣・北野まち歩き |
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第十三段 北野・天神さん界隈
北野天満宮は、菅原道真を祀って創建され、後に学問の神様として広く信仰を集めるようになったことは改めて申し上げるまでもないことですね。903(延喜3)年に菅原道真が太宰府で死去した後、京都では落雷や地震などの天災が続いたのを道真のたたりだとして、道真の霊を慰めるために建立されたのが始まりです。道真は誕生日も命日も25日であるそうで、北野天満宮の毎月25日には“天神さん”の縁日が境内の周辺で行われまして、多くの参詣客で溢れかえります。特に12月25日の縁日は“終い(しまい)天神”として盛大に開催されるのだそうです。国宝の社殿は幾度となく被災するもその都度再建されており、現在の建物は1607(慶長12)年、豊臣秀頼の造営によるものであるとのことです。社殿と拝殿を前後に配し、その間を石の間によって1つの社殿として纏め上げたもので、南に位置している拝殿の両側に楽の間を張り出させた構成となっています。社殿は桃山建築を代表する壮麗な彫刻や彩色が整えられた結構を呈しています。船岡山からも望まれたとおり、社殿は鮮やかな光沢の緑に包まれていまして、著名な梅園の緑とともにあでやかな景観をみせているように感じられます。
重要文化財で切妻造・銅葺きの東門を抜けると、そこは京都で最も古い伝統を持つとされる花街・上七軒(かみしちけん)です。名前の由来は、室町時代、焼失した北野天満宮を再建するために使われた材木の残りで七軒の茶屋を建てたことからと言われているのだそうです。祇園や先斗町などの京都における他の花街とは緩やかに一線を画しながらも上七軒が花街としての繁栄と格式とを維持してきたことの背景には、後背地として一大機業地・西陣を擁していたためです。上七軒は西陣の旦那衆が遊ぶ場所として発達し、このため“西陣の奥座敷”とも呼ばれているようです。春に上七軒歌舞錬場で開催される「北野をどり」の季節にはいっそうの華やぎを見せるとのことです。
再び天神さんの境内から梅園を右手に参道を南し、楼門をくぐりいくつかの鳥居を通って、今出川通りに面して屹立する大鳥居を抜け、天神通を南へ向かいます。北野界隈は千本中立売から天神さんまで続く門前町としての商業集積が穏やかに市街地に展開するエリアとなっていまして、落ち着いた下町的な町並みはここを生活の舞台とする人々の息吹が感じられるような、やさしさに満ちた町場であるようです。一条通西三丁入るの場所に鎮座する大将軍八神社は、平安建都の際都城の方位守護神として造営されたのが始まりと伝えられ、江戸時代初期に大将軍社と改められ、さらに大将軍八社となって現在に至ってるのだそうです。「大将軍」とは、陰陽道における「星神天大将軍」で、方位を司る神様なのだそうです。そのために旅行や移動に際しての方位除けの神様として、多くの信仰を受けたといういわれを持ちます。大将軍八社の南、一条通の商店街をさらに西し、紙屋川を一條橋によって越えて進みますと、「椿寺」として知られる地蔵院へと至ります。正しくは昆陽山地蔵院といい、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって726(神亀3)年に摂津国昆陽池のほとりに開山した地蔵院が始まりと伝えられているのだそうです。書院の前庭には「五色八重散椿」と呼ばれる椿の珍種が豊かな花を咲かせることでも知られているとのことです。 |
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