第十一段 千本通から西陣へ
千年の都として、わが国を代表する都市であり続けてきた京都の市街地には、現在でも随所に伝統的な町屋を残して、地域の文化を伝えているようです。先に、「洛中散歩」の中で、市街地における独特な住所表記(上ル/下ル、西/東入ル)や地蔵祠等についてお話ししながら、京都市街地における奥ゆかしい町並みや地域性について触れました。そこで、今回は京都の町並みを特徴づける事物の1つである町屋の景観に注目しながら、一度歩いてみたかった西陣・北野地域をめぐって、京都のいまを感じていこうと思っています。
2005年9月17日、約10ヶ月ぶりの京都散策は、地下鉄丸太町駅からスタートしました。丸太町通を西し、京都府庁の建物を確認しながら進み、千本丸太町へ。この交差点付近は平安京の昔、天皇が即位式を行ったり、国家の重要行事を執り行ったりする場所として最も重要な施設とされた、「大極殿(だいごくでん)」があった場所です。交差点から北西に入った公園内には、「大極殿址」の石碑が建てられています。千本通は、平安京の中央を南北に縦断する大幹線道路「朱雀大路」に比定されます。京都の町のオリジンである平安京は、この場所を北の中心として南へ広がる構造を呈していたわけですね。朱雀大路を軸として西側を右京、東側を左京と呼び平安京の町場が形成されていました。後に水はけの悪い右京が廃れて左京が新たな京都の町場として発達し、京都の町は二条通付近を境に南北の町場(上京、下京)持つ都市構造へと昇華して、現在に至ります。京都の長い長い歴史の一大ランドマーク大極殿跡を起点に、西陣地域へと歩むこととしました。
大極殿蹟址石碑
(中京区丸太町千本上ル聚楽廻東町、2005.9.17撮影) |
千本中立売交差点
(上京区千本中立売西入ル方向、2005.9.17撮影) |
堀川一条、東方向(一条戻り橋遠景)
(上京区堀川一条東入ル方向、2005.9.17撮影) |
大宮通に面した町屋
(上京区大宮元誓願寺上ル薬師町、2005.9.17撮影) |
「朱雀大路」をプリントされたペナントが街灯下に揺れる千本通を北し、京都において四条河原町と並ぶ一大繁華街であったという千本中立売交差点へと至ります。略して「センナカ」の呼称で親しまれ、一大産業地域で・西陣を後背地として揺るぎない輝きを見せていた町であったようです。奥ゆかしい今日の町屋が点在しつつも現代都市としての景観をなしていた千本通にあって、懐かしい雰囲気のアーケードや商店街が生き生きとした佇まいを見せる千本中立売の町並みは、際立った美しさを持っているように感じました。ここから西へ進めば北野商店街を経て“天神さん”こと、北野天満宮へと至ります。
片側一車線の広い幅員が確保されている中立売通を東へ歩みます。西陣ののびやかな町並みを進むこの通りは、かつて「N電(他の市電と異なり狭い線路幅であったことから、narrow(狭軌)の頭文字をとったもの)」の愛称で親しまれた市電北野線が通っていました。天神さんの南から南東へ緩やかに千本中立売へとつながる街路は、京都駅前から天神さんの門前までを軽やかに結んだ鉄路の名残であるといいます。堀川通に向かって高層マンションなどの近代建築物の密度が増していくように感じられます。かつて柳の揺れるなごやかな景観を呈していた通り端の堀川は、穏やかな緑地としてしっとりとした景観を与えながらも、表面は三面コンクリートで覆われて、底の部分にわずかに溝のようなクラックが穿たれて、僅かな流れが見えるか見えないかといった状態を留めるのみとなっていました。堀川中立売から北へ、陰陽道ゆかりの地として知られる一条戻り橋と清明神社を辿りつつ、西陣織産業振興の拠点として機能している西陣織会館へと至りました。
今出川通・千両ヶ辻付近
(上京区今出川大宮西入ル薬師町、2005.9.17撮影) |
三上家路地
(上京区紋屋町、2005.9.17撮影) |
本隆寺・本坊
(上京区智恵光院五辻上ル紋屋町、2005.9.17撮影) |
雨宝院
(上京区上立売通浄福寺東入ル聖天町、2005.9.17撮影) |
西陣織の歴史は、5〜6世紀頃、渡来人である秦氏が養蚕と絹織りの技術を伝えて、平安朝の職人たちによりその伝統が受け継がれたことに始まるとされます。一時衰微するものの、応仁の乱後、山名宗全の本陣跡に大舎人座を組織して西陣織の名を起こし、日本を代表する絹織物の1つである今日の西陣織の基礎が築かれていきました。西陣織は高度に分業化された行程を経て織り出され、図案家、意匠紋紙業、撚糸業、糸染業、整経業、綜絖業、整理加工業などの業者が介在し、それぞれの専門の職人が支えています。西陣webの説明を一部引用・要約することによりまとめてみます。西陣織の出荷額は2001(平成13)年で700億円で、大企業の生産額にも匹敵する規模となっています。しかし、それには約700の業者が存在していまして、西陣織の産地が中小企業の集団であることを示しています。設備台数は力織機が約7,000台、手機等約2,000台、また西陣織に直接、間接に従事する人々は約40,000人にも上ります。この社会的な分業構造が西陣織の特徴である「多品種少量生産方式を基盤とした先染の紋織物」の生産を可能にしていまして、個人の好みに合わせた、完成度の高い製品を生み出し得る原動力となっています。西陣織会館では、西陣織のきめ細やかなプロセスや製品の数々が展示されていまして、西陣織についての理解を深めることができます。
西陣織会館からは元誓願寺、千本今出川、大宮通と歩んで、西陣の懐かしい雰囲気を感じさせる町並みを楽しみました。分業によりさまざまな種類があるといわれる格子戸や軒の上の壁につけられた虫籠(むしこ)窓、その下にちょこっと乗っかった鐘馗さんといった京の町屋の景観は西陣に至ってその鮮度を増して、地域に根ざした味わいに溢れたランドスケープとなっていることを実感しました。大通りに面した界隈を中心に現代都市を象徴する高層建造物が屹立し、町屋も徐々に現代の住宅やコーポラティブなどに変化し、また一部には空き地や駐車場等の粗放的な土地利用形態に変貌したエリアも認められます。機織の音を巷で耳にする機会も少なくなったとするホームページにも少なからず出会います。しかしながら、この時代にあって、今なお今日の町屋がたおやかにあって、現代の町並みに溶け込む姿にこそ、私は惹かれました。それが製造業の町としての礎を出発点として積み上げられた西陣エリアの存在の証そのものであると考えるためです。町屋の軒の上には、無造作にエアコンの室外機を載せた町屋が多いのも、職人の町・西陣の1つの顔を見る思いで、雅なイメージが先行してしまいがちな京都の町歩きの中でもほっとするような感覚を与えてくれるのですから不思議なものです。
今出川大宮の交差点は、「千両ヶ辻」と呼ばれます。その昔この辻の界隈には両替商が軒を連ねて、一日に千両のお金が飛び交ったことからその名がついたといわれているのだそうです。北へ入る大宮通の界隈はややまとまった商店街となっていまして、徒歩圏内の人々が利用する活気ある町場を形成しているように感じられました。町屋景観が美しい紋屋町一帯を巡ります。かつての有職織物の職人の住まいであった町屋が若手陶芸家の活動の場等として再活用されているという、レトロな雰囲気の漂う三上家路地(みかみけろーじ)、門出を祝うめでたい神社として知られる首途(かどで)八幡宮、いわゆる「西陣焼け」等の数々の大火にも焼け残ったとされる「焼けずの寺」の異名を持つ本隆寺、そして西陣聖天の名で知られる雨宝院と、西陣の持つさまざまな姿を胸に刻みました。
第十二段へと続きます。
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