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シリーズ京都を歩く
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8.山科から醍醐へ |
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第二十二段 醍醐散策 現代の都市化は丘陵地に巨大な団地を出現させたり、道路という道路をアスファルトで固めてしまったりと、地形や景観を大幅に改変させる、ダイナミックな様相を呈します。しかしながら、都市的なインフラは長年使用される性質もあってか、現代における異常とも思える開発の流れの中にあっても粘り強くその形状を保ち続けている場合もまた少なくありません。随心院門前から歩み始めたかつての奈良街道は、そんな現代に昔ながらの存在感を今に強く残す事物のひとつではないかと思います。道路の通称としての「奈良街道」は併走する二車線道路の府道大津宇治線に譲っているものの、先述のとおりバス通りとしては伝統のある路線のようで、醍醐寺入口付近には風格のある町や建築も残されていまして、この道が京へ続く主要幹線道路として長い間重要な位置づけにあったことを実感させるに余りある風景が連続していきます。
行政区としてはこの付近から山科区を抜け、南の伏見区の範域となります。新しい「奈良街道」と交差し、前述の穏やかな町屋が続くエリアを抜けますと、道路沿いに穏やかな松並木が続く醍醐寺門前へと至りました。世界文化遺産「古都京都の文化財」の1つとして登録を受ける醍醐寺は、弘法大師の孫弟子である理源大師・聖宝が、874(貞観16)年に醍醐山上に草庵を営んだのが始まりとされ、国宝の五重塔は952(天暦6)年の建立で、京都府内最古の木造建築物であるとのことです。開創後、歴々の天皇の深い帰依により山上山下に大伽藍が建立され、山上のそれは上醍醐、山下のそれは下醍醐と、それぞれ通称されています。
総門をくぐり、まず国の特別史跡・特別名勝となっている庭園で名高い三宝院(さんぼういん)へと向かいます。醍醐寺は長い歴史の中で火災に遭い、中世には前記の五重塔を残して多くが消失、荒廃の状態にあったのだそうです。1598(慶長3)年春に豊臣秀吉が「醍醐の花見」を開いたことをきっかけとして三宝院や金堂などが再建され、現代へと受け継がれてきました。国宝の表書院から眺める庭園は隅々まで手入れの行き届いた見事な造形で、配布される庭園の見取り図には石ひとつひとつが丁寧に描きこまれているほどです。再び激しさを増してきた雨の中、水と緑とが絶妙に配置された庭石とあいまって、華やかながらも、自然な美しさに彩られた空間が演出されていました。
昔ながらの姿を今に伝える旧奈良街道筋は、醍醐寺門前も穏やかに通過しながら南へ、現代の町並みの中を進んでいきます。現代の「奈良街道」と合流するあたりになりますと、自動車の通行量は果たして多くなって、歩道スペースが十分でない道路は、歩いて通過するには難渋する場所もありました。醍醐地区南部から石田地区へ向かう段まで来ますと、そこは道路交通を志向した郊外型の店舗がゆったりと集まる、現代の都市郊外の只中でした。西を通過する外環状線沿線までの間に、大型スーパーマーケットなどの商業機能が集まっていまして、六地蔵駅周辺までがちょっとした商業核になっているような印象です。この商業地域を取り囲むエリアでは宅地化も著しいようで、醍醐における最後の訪問先である日野薬師(法界寺)までの道程も、建設途上の住宅地を見かけました。通行車両も相変わらず多い様子で、雨のいよいよ強くなってきたこともあり、日野薬師訪問以降、六地蔵駅まではバスを利用しました。 |
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