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シリーズ京都を歩く
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8.山科から醍醐へ |
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第二十一段 山科を歩く(後) 御陵駅界隈や、中高層の建築物が集積する山科駅前の景観は、古都というよりは、大都市近郊都市地域としての姿そのもので、京都といえども現代の大都市であることには変わりはないことを改めて実感させます。雨が小康状態になった後、駅前を南に伸びる幹線道路「外環状線」を南へ進みました。プラタナスの街路樹が雨にぬれて鮮やかさを増す中、多くのバスや自動車が通りを駆け抜けていきます。多くの建物によって充填された風景は都市近郊のターミナルとしての拠点性そのものであるのに対し、道路の向こう、建物の列の切れ目の彼方に霧を纏った丘陵の緑が見えるようすは、ここが小盆地の只中であることを思い出させ、山科の大地を象徴しているようにも思われました。 前述の粟田口方面へと続く三条通(府道四ノ宮四ツ塚線)の交差点(外環三条交差点)を低層の家屋の間に中層のマンションが混在する景観へと移り変わって、穏やかな住宅地域となっていきます。外環状線から西へ入りますと、戸建ての住宅が立ち並ぶエリアとなり、緑に満ちた閑静な住宅地そのものです。市営山科団地や山科中央公園のある一帯は、中世(戦国時代中期:1468年〜1532年)に栄えた本願寺教団の総本山「山科寺内町」のあった場所に相当します。山科中央公園内には寺内町を取り囲んだ土塁の一部が現存しています。山科寺内町は1532(天文元)年に焼き討ちに遭い、その後石山本願寺(現在の大阪城の付近)へとその本拠を移し、以降山科は近郊農村となって歴史を刻みました。近代以降の都市化により、このエリアは都市近郊の穏やかな住宅地域へと変貌しました。そうした現在の都市の住民の憩いの場所ともいえる公園の只中に中世の遺構が残されている。このことは先述した旧東海道筋周辺のさまざまな石碑などの存在とともに、京都の町における歴史の奥の深さを示しているとも思われました。
団地の間を抜け、東海道新幹線の高架に沿う国道1号線を東へ進みます。途中渡った山科川は折からの雨で水量が増えています。心ばかりのイチョウ並木がかえって無機質な人工空間-コンクリートの高架とアスファルトの幹線道路-を際立たせます。台風の接近に伴い風雨が強まることも予想されるため、当初のすべて徒歩の予定を一部変更し、東野駅から小野駅までは地下鉄を利用しました。山科から醍醐方面のアクセスは地下鉄東西線の開通により大幅に改善され、六地蔵駅までの延伸開業によってその利便性はより高くなりました。真新しい地下鉄は、乗客はあまりおらず、ゆったりと腰掛けて疲れをいたすことができました。
勧修寺を後にし、穏やかな郊外住宅地域を歩みながら、小野小町ゆかりの史跡で知られる随心院(ずいしんいん)へ。境内には小野梅園と呼ばれる約230本の梅の木が植栽され、寺院の建物と背後の山々へと続く緑の絵画の礎を軽やかに彩っています。991(正暦2)年、空海の8代目の弟子に当たる仁海僧正がこの地に牛皮山曼荼羅寺を建立したことに始まる寺院は、山科の野ののびやかな丘陵の美しさの中に溶け込むようなたおやかさを纏っているように感じられました。竹林の中に神秘的な姿を見せる小野小町の化粧井戸は、小町の屋敷跡に残るもので、小町が朝夕この水で粧をこらしたとされているものであるそうです。 |
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