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シリーズ京都を歩く
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12.蕭条寂光の |
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第三十四段 一乗寺を歩く ~時雨に濡れる情趣に触れる~ 20121年12月1日、北野天満宮での紅葉を見た後は、今出川通を東行する市バスで出町柳へ移動し、叡山電車で一乗寺駅に到達、下車し彷徨を再開しました。一乗寺は平安初期から中世にかけて存在した天台宗の寺で、南北朝の動乱以後に衰微し廃絶したものの、この一帯の地名となって受け継がれているものです。北野天満宮辺りでは日差しもありましたが、一乗寺に来て再び時雨模様となり、どんよりとした空の下冷たい雨水に濡れる地域を歩きました。
大都市郊外の閑静な住宅地域然とした界隈を東へ10分ほど進みますと、一条寺下り(さがり)松と呼ばれる松の木があります。一乗寺は近江(滋賀県)から比叡山を経て京に達する平安時代からの交通の要衝であったそうで、この松は往来する人々の目印となるよう植えられたものであるようです。現在のものは四代目にあたると、傍らに設置された立て看板に記されていました。この付近で江戸時代に剣豪・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った伝説でも知られています。東山山麓の集落を縫って進んだ街道筋の傍らに目立つ存在であったであろうその松は、現代都市の住宅地域の中に取り込まれて、そうした地域の歴史を伝える事物の一つとなっているように感じられます。中には土蔵造りの建物も認められました。近くには宮本武蔵が決闘の前に神頼みをしようとするも、己の弱さに気づき参拝を止めたという逸話の残る八大神社もあります。 東山の山裾に隠れるように穏やかな竹藪に包まれた参道を進み、石段を上がって、いくつかの簡素な門をくぐりますと、正面に物見櫓のような構造を持つ建物に到達しました。江戸時代初期の1641(寛永18)年、文人・石川丈山が隠居のために建設した山荘です。正式には「凹凸窠(おうとつか)」と呼ばれるこの建物は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像(狩野探幽画)やそれら各詩人の詩が掲げられた「詩仙の間」を中心に構成さていることから、一般には「詩仙堂」との名で親しまれています。なお、「凹凸窠」は、「でこぼこした土地に建てた住居」という意味であるそうで、櫓のような小楼は「嘯月楼(しょうげつろう)」の名が付けられています。詩仙堂には日本で最初に庭園に用いられたという添水(そうず、いわゆる鹿威しのこと)もあって、時折響く高い音が、静寂と晩秋の枯ゆく庭の趣とを一層引き立てていました。
冷たい通り雨が引き続き足元を濡らす中、さらに一乗寺のしずかな住宅地を進んで、圓光寺(臨済宗南禅寺派)へ。当寺の端緒は、伏見に設立された学校でした。1601(慶長6)年、徳川家康が国内教学の発展を図るため、足利学校から禅師を招き、圓光寺を建立し学校としたのだそうです。その後寺は相国寺に移り、さらに1667(寛文7)年に現在地に移転し今に至ります。池泉式回遊庭園は「十牛の庭」と呼ばれます。禅の悟りを牧童が牛を追う姿に準えた十枚の絵である「十牛図」を題材として近世初期に作庭されました。庭にある栖龍池(せいりゅうち)は、洛北で一番古いものとして知られます。既に葉を落とした木やいまだ錦の葉をその身に纏わせる木とが混然となって冬へと向かう季節感を映像化して、その佇まいをゆったりと眺めますと、無常観や自然の風雅などが胸に迫るように響きます。水琴窟には鮮やかな楓の一枝がそっと添えられていたのが印象的でした。 圓光寺からはさらに東山へと分け入り、曼殊院門跡へ向かいました。この辺りまで来ますと、一乗寺駅付近からはかなり高台になっていまして、水田や畑なども多くみられるようになります。また、少し高い場所からは市街地方面への眺望が利く場所もあり、ここが本来は京からは隔絶された、東山山麓の山里であることを実感させます。京都曼殊院門跡は、最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院です。青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂と並ぶ天台宗五箇室門跡の1つに数えられます。門跡寺院は、皇室や摂関家の子弟が代々門主を務める寺院のことです。初代門主是算が菅原家の出身であったことから北野天満宮との関係が深く、明治維新まで曼殊院門主は北野天満宮の別当職を歴任しました。現在地への遷座は数度の移転の後の1656(明暦2)年のことで、良尚法親王の手によるものです。入口の勅使門を中心に左右には白壁の築地塀が鮮やかな紅葉に染まる木々に隠されるように続いていて門跡寺院としての格式を感じさせます。枯残水の庭園は鮮やかな紅葉がとても美しく、時折スポットライトのように差し込む冬の光に照らされた照葉の一枚一枚がステンドグラスのような輝きを見せていました。
曼殊院門跡訪問で一乗寺地域の散策は一区切りをつけて、銀閣で知られる慈照寺を訪れました。慈照寺は相国寺の塔頭寺院で、足利義政の隠居所「東山殿」をその遺命により寺としたものです。銀閣として知られる観音殿は東山文化を代表する建築として知られます。杮葺き二層の建物は、下層は「心空殿」と呼ばれる書院造の住宅、上層は観音像を安置する禅宗様仏殿で「潮音閣」と呼ばれます。銀箔は張られませんでしたが、鹿苑寺金閣に対し銀閣と称されるようになりました。1994(平成6)年に世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして指定されました。華麗な印象を受ける金閣に対し、銀閣は質素で奥深い気品を感じさせる落ち着いた佇まいが特徴であるように思います。錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園は、円錐状に盛り上げた「向月台」や縞模様に整えられた「銀沙灘(ぎんしゃだん)」など、銀閣寺を特徴づける造形が心地よいアクセントとなっています。山内の高台からは、境内や背後の吉田山に囲まれる地域一帯を軽やかに眺めることができました。 その後、哲学の道を通りながら出町柳に戻り、京阪電車を利用して東福寺の紅葉を観賞したり、夜になってからは再び北野天満宮を訪れてライトアップされた御土居のもみじ苑の紅葉を拝観しました。闇夜に明るく照らし出される紅葉は葉の一枚一枚が形成するグラデーションが一際鮮明になっているように感じられて、晩秋の自然が織りなす美が凝縮されていました。この日の京都は終始空気が冷たく、時雨とわずかな晴れ間とが交互に訪れるような、この季節の京都らしい日和となりました。嵐山から一乗寺へ進む道筋の中で、随所で触れた紅葉の色彩は、そうした季節の移ろいの情趣を存分ににじませたような美しさを見せていたように思います。 |
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