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シリーズ京都を歩く
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21.洛中と洛外、都市としての京都 ~葬送と清遊、信心の境地~ |
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第五十六段 西陣エリアをゆく ~葬送・戦乱の地からの伸張~ 北野八幡宮の御土居のもみじ苑での時間を過ごした後は、花街としての佇まいを残す上七軒の町並みを歩きながら、七本松通を上がって大報恩寺(千本釈迦堂)へと向かいました。千本釈迦堂では、毎年この時期(12月7日と8日)に、成道会法要として大根炊き(だいこだき)が行われていまして、諸病除けに御利益があるとされる大根の煮込みを求める多くの参詣客が行列をつくっていました。千本釈迦堂の創建は、1227(安貞元)年で、義空上人によって開創されました。国宝の本堂は、創生期の建築がそのまま維持されているもので、京都市中を焦土に変えた応仁・文明の乱における戦災も免れた、京洛最古の建造物として知られます。
千本釈迦堂からは五辻通を東へ進み、小規模な商業集積や町屋も見える千本通へと出ました。平安京において、大内裏から羅城門へと続く大幹線道路であった朱雀大路に比定される千本通は、現在では平安京の範域を超えて北に延長され、北区鷹峰へと続く通りとなっています。イチョウ並木がしなやかに色づく通り沿いには、石像寺(釘抜地蔵)や引接寺(千本ゑんま堂)、上品蓮台寺などの寺院が存在していまして、昔ながらの町並みに融合していました。釘抜地蔵は、弘法大師開基と伝えられる古刹で、重源上人の中興後は浄土宗の寺となっています。弘法大師作と伝わる石造地蔵尊は、諸々の苦しみを抜き取るという信仰から「苦抜地蔵」と呼ばれたものが変化し「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったとも伝えられるのだそうです。上品蓮台寺は聖徳太子創建と伝わり、960(天徳4)年に宇多法皇の勅願により寛空僧正が再建し、現在の寺号に改めたものと伝わります。 千本通は、その千本通の基軸ともされたと言われる船岡山の西麓における葬送地への道に千本の卒塔婆を立てて供養としたことに因むとも言われているとのことで、京都の町から見て西北の郊外に位置したこのエリアが、伝統的な葬送の場所でありました。先にご紹介した化野と並ぶ北の葬送地として、蓮台野の名でも知られる土地です。そうした京都の町の都市構造において重要な位置を占めていた船岡山の南をなぞるるように進む鞍馬口通へと入り、蓮台野を刻む紙屋川を渡って、建勲(たけいさお)神社の境内へと上る石段を上って、船岡山の山上へと至りました。現在では、眼下の西陣をはじめとした京都市街を一望できる自然豊かな公園となっている船岡山ですが、上記した歴史を思い山頂に立ちますと、この山の緑が古の京都の人々にとって、言葉にすることが難しいような感傷を表現するものであったであろうことが想像させる風景でした。
船岡山から鞍馬口通へと再び入り、通りの家並みの間に比叡山の山容を望みながら、京都らしい町屋造の建物が続く風景を進みます。平安京の外側、北辺の一帯であった紫野には、淳和天皇の離宮であった紫野院(雲林院)の広大な敷地があり、大徳寺から北大路通を挟んだ南側に、寺名を踏襲し1707(宝永4)年に建立された現在の雲林院(うりんいん)が、大徳寺の塔頭として残ります。付近には、その雲林院との関わりの深い紫式部の墓や、平安京の北面を守護する玄武神が祀られた玄武神社など、平安時代にゆかりのある事物が残ります。そうした史跡が京都市中心部近傍の住宅地域となっているエリアに存在していることは、この町が時代を超えて都市として生き続けてきたことを何よりも雄弁に物語っています。玄武神社では、長い時間祈祷をする人もあって、地域に根ざした信仰の深さも実感しました。 北大路堀川からは、イチョウ並木が黄色に色づく堀川通沿いを進みました。堀川通沿いの水火天満宮は、水難火難を鎮 めるために、 醍醐天皇の勅願により、923(延長元)年、菅原道真の師でもあった尊意僧正が道真の神霊を勧請したとされる神社です。その東を南北に通る小川通沿いは、京都市によって「上京小川歴史的景観保全修景地区」の指定を受けるエリアで、市による修景計画書による説明では、この地で千利休の子孫が当地で茶道家を営むことになり、茶道文化の殿堂の地を形成、現在では、織屋、商家と社寺や茶道家の門構えが地域固有の町並みを構成し、他では見られない風雅な景観が保たれていることが解説されています。かつてこの通り沿いを流れていた小川(こかわ)の面影を残す本法寺の門前や、百々橋(どどばし)の礎石跡が残る一帯は、行き交う人も少なくて、その洗練された佇まいを静かに観賞することができました。この寺之内通小川に掛かる百々橋は、この橋を境に東軍と西軍に別れて「応仁の乱」が勃発し、その主戦場となったことでも知られまして、その西方の陣地があったことが、「西陣」の地名の由来となっています。
寺宝の「鳴虎図」や「撞かずの鐘」で知られる報恩寺の訪問後は、堀川通を渡り、応仁の乱の西軍を率いた山名宗全の邸宅跡を訪ね、今出川通北側の首途(かどで)、本隆寺、雨宝院と訪問しました。この辺りは応仁の乱の後、織物の産地として興隆した西陣エリアのまさに只中にあたる場所です。中世から近世にかけて京都が都市として成長する過程で、西陣など上京と呼ばれる町場は次第にかつての葬送地や遊興の地であった北や西側の空閑地へと展開していくこととなります。集約的な機業地として人口密集地となった西陣の家並みは、現代にあっても京都の都市景観を象徴する存在として息づいていました。 |
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