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シリーズ京都を歩く

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21.洛中と洛外、都市としての京都 ~葬送と清遊、信心の境地~
第五十七段 清水寺から京都北辺の風景へ ~都市・京都の成り立ちを見つめる~

 2019年12月8日は、前日に引き続き京都市内のフィールドワークを進めました。前日に引き続き、曇り空の京都は、初冬らしい空気の下にありました。予報では天気は回復傾向で、時折日射しも覗いていたのですが、山沿いを歩く場面では時雨にも見舞われまして、それも含めて冬の初めの京都らしい気候の一日であったように思います。

清水寺

清水寺・仁王門と三重塔
(東山区清水一丁目、2019.12.8撮影)
清水寺舞台から京都市街地を望む

清水寺舞台から京都市街地を望む
(東山区清水一丁目、2019.12.8撮影)
清水寺

清水寺本堂・屋根の葺き替え工事中
(東山区清水一丁目、2019.12.8撮影)
産寧坂

産寧坂の風景
(東山区清水三丁目付近、2019.12.8撮影)
二年坂の風景

二年坂の風景
(東山区桝屋町付近、2019.12.8撮影)
石塀小路

石塀小路
(東山区下河原町、2019.12.8撮影)

  京都駅前を出発する急行系統で五条坂へと進み、2年前も歩いた五条坂から清水新道(茶碗坂)を登り、平成の大修理の一環として本堂の檜皮屋根の葺き替え工事が進捗している清水寺を訪れました。上ってきて見上げる仁王門と三重塔の偉容は、灰色の冬空を背景にしても、清しい光景として目に映りました。舞台から望む京都市街地の風景はいつもながらに圧巻で、眼下に広がる紅葉の萌えるような様も相まって、この寺を訪れる多くの人々に新鮮な感動を与えるものであったように思われました。奥の院の前を経て子安塔へと向かい、坂道を下って音羽の瀧まで進みながら、紅葉と境内の堂宇とが重なる、とてもしなやかな色彩を噛みしめます。曇天の下でも極上の真朱を慎ましやかに宿すカエデの葉は、この清水寺の周辺が、平安の昔は「鳥辺野」と呼ばれる葬送地であった歴史をかすかに物語っていたようにも感じられます。

 一大観光地として、早朝にもかかわらず多くの人々で既に溢れていた清水坂を下り、三年坂(産寧坂)へと下って八坂の塔まで進みつつ、とって返して二年坂へと入り、風情ある町並みを探勝しました。高台寺門前の「ねねの道」と呼ばれる一角や、その東側の石塀小路を辿るのは、本稿の初稿でご紹介している2003年以来であったのかもしれないと思い当たりました。いわゆる祇園の奥座敷的な位置づけで明治末期から大正初期にかけての時期にお茶屋の貸家が軒を連ねたのが端緒と言われる石塀小路は、やはり都市の縁辺部の空隙を求めて、都市としての京都が郊外化した過程を今に残すものであると言えるのでしょうか。祇園の花見小路付近一帯も、かつては建仁寺の境内地であったことも以前にお話ししていたと思います。東大路通に出て祇園交差点にさしかかり、八坂神社の西楼門を一瞥した後、近くのバス停から上賀茂神社行きのバスに乗り込み、同神社を目指すこととしました。

上賀茂神社・細殿と立砂

上賀茂神社・細殿と立砂
(北区上賀茂本山、2019.12.8撮影)
上賀茂神社

上賀茂神社・楼門
(北区上賀茂本山、2019.12.8撮影)
上賀茂神社

上賀茂神社参道(馬場)
(北区上賀茂本山、2019.12.8撮影)
上賀茂・社家の町並み

上賀茂・社家の町並み
(北区上賀茂池殿町付近、2019.12.8撮影)
西賀茂の住宅地景観

西賀茂の住宅地景観
(北区西賀茂大深町付近、2019.12.8撮影)
正伝寺

正伝寺
(北区西賀茂北鎮守庵町、2019.12.8撮影)

 上賀茂神社も、2003年3月以来の再訪であったようです。上賀茂神社は、賀茂別雷(かもわけいかづち)神社の通称で、下鴨神社として知られる賀茂御祖(かもみおや)神社とともに、賀茂氏の氏神として、平安遷都以前よりこの地に存在し、崇敬を集めてきました。この日は、上賀茂神社が発祥地である京都名産の漬物「すぐき」を奉納する神事が行われていまして、参詣客にも振る舞われていました。境内は一の鳥居を過ぎますと芝生の馬場の中を参道が進む形となります。社殿は境内で合流する東側の御物忌(おものい)川と西側の御手洗川の内側、木々に覆われるように建てられています。ふたつの川は合流後は「楢の小川」と呼ばれ、境内を爽やかに行き過ぎた後、明神川となって、神職たちが暮らした「社家の町並み」へと続いていきます。土塀や小橋が穏やかな風景を作り出す家並みの先には、比叡山のたおやかな町並みが重なります。

 御薗橋をわたり、橋の名が付けられた御薗橋通を西へ進みます。西に向かって緩やかな上り勾配のある周辺は、穏やかな住宅地に時折畑やビニルハウスが点在するといった土地利用で、都の郊外における田園地帯であった過去を想起させました。1935(昭和10)年に土地区画整理事業が施行されたようで、その頃から徐々に都市化が進み、現代の町並みが形成されてきたことが偲ばれました。突き当たった紫竹西通を北へ折れて、だんだんと畑が増える宅地を上っていき、丘陵地の緑の中へ歩を進めますと、杉などの木立に覆われた正伝寺の門前へと至りました。鎌倉時代創建と伝わる正伝寺の本殿は、寛永年間(1624~1644)に伏見城の遺構を移建したものとされ、天井には血の手形が往時の凄惨さを伝えています。入母屋造・こけら葺きの建物は国の重要文化財の指定を受けます。また、本殿前の枯山水庭園からは、比叡山を借景とした、慎ましやかな佳景が広がります。丘陵地に展開する住宅地を抜けて、千本通の北の起点である鷹峰交差点周辺の寺院を訪れました。光悦寺の境内は、穏やかな森の中を周遊するような景観で整えられていまして、鷹ヶ峰や鷲ヶ峰を望むかすかな隙間から、京都盆地への視界が開けていました。

正伝寺・枯山水庭園

正伝寺・枯山水庭園
(北区西賀茂北鎮守庵町、2019.12.8撮影)
光悦寺

光悦寺・門前の風景
(北区鷹峰光悦町、2019.12.8撮影)
光悦寺境内からの眺望

光悦寺境内からの眺望
(北区鷹峰光悦町、2019.12.8撮影)
妙円寺(松ヶ崎大黒天)

妙円寺(松ヶ崎大黒天)
左京区松ヶ崎東町、2019.12.8撮影)
修学院離宮

修学院離宮の景観
(左京区修学院梅谷、2019.12.8撮影)
修学院離宮

修学院離宮・上離宮からの眺望
(左京区修学院梅谷、2019.12.8撮影)

 鷹峰からは京都市北部におけるターミナルである北大路バスターミナルまでバスで向かい、地下鉄で松ヶ崎駅まで移動後、北山通を東へ進んで、この日拝観を申請していた修学院離宮へと歩を進めました。松ヶ崎は、郊外然とした北山通の北側に向かしながらの風情を残す集落があって、五山送り火の「松ヶ崎妙法」を望みました。カエデの紅葉で埋まる妙円寺(松ヶ崎大黒天)を拝観した後は、17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))に後水尾上皇の指示で造営された離宮である修学院離宮へ。比叡山西麓の斜面に下離宮、中離宮、上離宮の3つに分かれて造営された離宮は、水田の間につくられた松並木が優雅な雰囲気を醸し出して、初冬の紅葉がはかなく散りゆく風景の中で、至高の芸術性をもって参観者を迎えていました。

 京都盆地、船岡山を北の軸として建設された平安京をベースに、その都市構造を今日まで承継した京都の町並みは、千年を超えるときの中で洗練された粋を結実させながら、現代としして拡大し、それを昇華させてきました。現在進行形で変化する町並みの中に、そうした人々の栄枯盛衰を随所に残す、この町のあり方を改めて概観する彷徨となったように思います。修学院離宮の最上部から俯瞰した初冬の夕暮れの京都盆地は、そこまでも鷹揚に、そして高雅に、寂光を受け止めていました。


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