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九州秀景・2014年初秋
2014年9月5日から8日にかけて、九州を周遊しました。今回のフィールドワークでは、中小の都市に注目し、多様な姿を見せるまちの姿を見つめました。
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訪問者カウンタ ページ設置:2017年9月27日 |
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佐世保市街地を歩く 〜活力にあふれる商店街を行く〜 2014年9月5日、初秋のさわやかな晴天下の長崎空港に降り立ちました。この日から4日間の予定で、九州地方の各地をめぐることにしていました。九州は2010年初めに南九州を訪れて以来の再訪です。今回のフィールドワークでは、これまで歩いてこなかった地域中心都市をフォローしつつ、豊かな自然に抱かれた集落景観なども対象として視野に入れていました。長崎空港近くでレンタカーを調達し、まずは長崎県北部の拠点都市としての都市基盤を持つ佐世保へと向かいました。
佐世保駅前は、海岸まで迫る丘陵性の台地に寄り添うような狭い平坦地に中心市街地が展開しているために、地方都市としてはかなり建物の密度の高い街並みが印象的でした。駅の西側には佐世保港が間近で、鉄路と海との間のわずかな空隙を、佐世保道路(西九州道)が高架で貫通しています。リアス海岸が形成する佐世保湾の湾奧にあたることもあり、海面はとても穏やかで、初秋のやさしい青空が海の青を涼やかに輝かせていました。東口のロータリーに接する複合商業ビル「フレスタSASEBO(現在は「えきマチ1丁目佐世保」に名称変更)」を一瞥しながら、拡幅された幹線道路である国道35号に沿って散策を開始しました。右手の高台にはカトリック三浦町教会の白亜の聖堂が瀟洒な姿を見せていました。 佐世保市の人口は約25万人で、これは九州内では9番目の規模となり、県内では長崎市に次ぎ、また県庁所在都市である佐賀市のそれをを上回ります。長崎県北部や一部佐賀県西部にかけての地域をカバーする、長崎市とは独立した経済圏を持つ都市です。佐世保の都市としての発展の歴史は明治期に旧海軍により軍港が建設されたことを嚆矢としています。そうした背景から現在でも海上自衛隊や米軍佐世保基地が置かれる国防上の重要拠点としての機能も保持します。三浦町教会を一瞥しながら、多目的ホール「アルカスSASEBO」の現代的な建物の前を通り、四ヶ町商店街へ。北側につながる三ヶ町商店街(サンプラザ商店街)を含めた全長960メートルのアーケード商店街は、日本一の長さを誇ります。イオン佐世保ショッピングセンターや玉屋といった大型店舗もあり、再開発による新しい建物も多くあって、地方都市の中心都市としては繁華な商店街となっていることが特筆されます。商店街のほぼ中央を松浦鉄道の鉄路が高架で抜けますが(商店街からは見えません)、徒歩圏内に佐世保中央駅と中佐世保駅が近接します。両駅間は距離がわずか200メートルしかなく、それは日本一短い駅間としても知られています。
中心市街地の西側には佐世保川が穏やかな流れが接しています。対岸は佐世保公園の緑が広がって、その向こうの自衛隊施設との間の緩衝地となっているようでした。川に沿って細長く続く狭い低地とそれに隣接する丘陵地に広がる市街地と住宅地がつくる風景は、規模の大小はありますが県都長崎のそれに似ているようにも感じられます。静かな川には佐世保市の姉妹都市の名を冠した「アルバカーキ橋」が架けられていまして、町のスカイラインにのびやかなアーチのアクセントを与えていました。 四ヶ町のアーケード街から国道35号沿いに京町通り商店街のアーケードが続き、その東には戸尾市場街と呼ばれる昔ながらの商店街がつながります。生鮮食料品や雑貨品などを商う個人商店が軒を連ねる商店街は、古くから佐世保の台所として市民生活を支えてきました。2012(平成24)年3月に市場街の一角を占めていた「戸尾市場」が火災で焼失する惨事となりましたが、防空壕跡地を店舗に転用した「とんねる横丁」など、個性的な商店街が営業していまして、活気のある佐世保の町を盛り上げているように感じられました。
市街地散策を終えた後は、佐世保市街地や九十九島を眺望できる弓張岳展望台と石岳展望台へ。多島海の美しい景観と、軍港や重工業に支えられ成長してきた佐世保の街並みを輝かしく望みました。近代以降天然の良港としての地勢が注目されて軍港化されるまでは、佐世保周辺はのびやかな自然に抱かれた一村落でした。軍事的拠点としての性格を強めながらも、過度に無機質な都市とはなっていない印象を受けるのは、佐世保が古来より抱かれてきたこのさわやかな環境のなせる業なのかなとも思われました。 佐賀県内の都市をめぐる 〜多様な産業に根差した街並み〜 肥前国は名称において対をなす肥後国とは対照的な特徴を持つ地域です。肥後、現在の熊本県が熊本という中核都市によってほぼ統括される一方、肥前のほうは佐賀・長崎の2県に分かれ(長崎県には対馬・壱岐の2国も含まれます)、中小の都市がそれぞれに独自の都市圏をもって存立しています。この肥前国の地域性の背景には、筑紫平野から半島部まで変化に富んだ地形の影響はさることながら、対外的な交流の中で個性あふれる産業が根付いてきたこともあると考えます。最初に歩いた佐世保は軍港由来、そして長崎は周知のとおり藩政期は外国との通商のわが国唯一の窓口でした。討幕運動の一翼を担った佐賀藩の本拠佐賀をはじめ、多様な都市が並立した地域は、エリアごとに多彩な表情を見せていました。 佐世保を後にして佐賀県内に入り、磁器生産で著名な有田へと進みました。有田川下流の伊万里とともに磁器の作陶に象徴される地域は、窯業の伸張とともに街並みが形成され、JR上有田駅周辺の有田内山地区のそれは国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。中心市街地は美しい土蔵の建物を含む妻入ながら間口の広い建物が連なる街並みで整えられています。1828(文政11)年の大火により建物のほとんどは消失していますが、その後復興し、江戸期から昭和まで各時代に建てられた建築物が立ち並んでいます。有田焼を店頭にディスプレイする店舗もたくさんありまして、地域の伝統を実感しました。
街並みを散策しながら南の高台を石段を上り、佐世保線の鉄路を越えた先に鎮座する陶山(すえやま)神社へ。石段を上った先には磁器製の鳥居が起立していまして、やはり磁器でつくられた狛犬や灯篭、玉垣などとともに焼き物の里らしい風情を漂わせていました。境内から見下ろす有田の町は、全体としては丸みを帯びながらも、随所に鋭角的なシルエットを見せる山並みに抱かれるように広がっていまして、磁器を作るのに適した土壌の存在と、それにより命脈を保ってきた地域の姿とを現しているように感じられました。陶山神社は応神天皇を主神としますが、藩祖鍋島直茂と陶祖と呼ばれ、有田焼の生みの親とされる李参平(朝鮮出身の陶工、日本名金ヶ江三兵衛)を祭神として祀ります。 再び市街地へ戻り、表通りから一歩入った通りにある「トンバイ塀」のある街並みを進みました。トンバイ塀とは、登り窯を構成する耐火レンガを「トンバイ」といい、そのトンバイや陶片などを赤土で塗り固めて作られた塀のことを指します。塀を構成する断片の一つひとつはそれぞれに色が異なっていまして、その風合いは磁器づくりに邁進してきた地域の伝統そのままの尊さを帯びているように感じられます。表通りに軒を連ねた商家に対し、焼き物を行った陶工たちは裏通りに居を構え、敷地の周囲にトンバイ塀を張り巡らすことによって製法が外部に漏れないようにしていたとも言われているようです。窯元の煙突とトンバイ塀とが重なる風景に、現在まで受け継がれる有田の粋を観たような気がしました。トンバイ塀のある裏通りを辿った先には、この町が焼き物で興隆する前からこの地に根を下ろしていたという大銀杏が枝を広げていまして、静かに今日の町を見下ろしていました。
有田での散策後は、佐賀県内にある重要伝統的建造物群保存地区の指定を受ける地区を訪ねました。嬉野市塩田津地区は、開港地長崎へ向かう重要な街道であった長崎街道の宿場町として、また塩田川を干満の差を利用し遡上する物流の集散を担う川港として栄えました。正確には長崎街道には塩田を通る「塩田道」と、現在の武雄温泉付近を通る「武雄(塚崎)道」とがあったようで、前者は当初は本堂筋であったものの塩田川の度重なる氾濫の影響で後者のルートがつくられ、こちらがメインの街道に移り変わった経緯があったようです。豪商であった旧西岡家住宅は、災害に強い漆喰造の大型の町屋である「居蔵造」の代表格の建物で、国指定の重要文化財です。旧街道沿いには往時の繁栄ぶりを偲ばせる落ち着いた街並みが広がります。 街並みに接する旧塩田川沿いには現地で「御蔵浜」と表示されていた川港の跡地が川に望む石段状の遺構として残されています。往時は米や有田・伊万里方面からの磁器が搬出し、その時期の原料となる陶石を天草などから受け入れていました。現在は河川改修により塩田川の本流は町場の南を離れて流れていますが、元来は川港のすぐ近くで浦田川と合流後大きく東南へ蛇行する流路を取っていました。肥前が誇る窯業と結びつきながら、交通の要衝としても重要な地位を占めた塩田の街並みは、川港としての役割を終えた今、地域の歩みを濃厚に刻んでいました。石工も多く活躍した土地柄を反映する本応寺の石造仁王像などを見学しながら、札の辻(ふだんつじ)へと戻り、町の西の外れの高台に位置する常在寺へ。塩田の家並は重厚さと柔らかさとを併せ持つシルエットを見せていました。後背地は稲の鮮やかな緑が一面に広がって、彼方の山並みは有田で見たそれにとてもよく似ていました。
佐賀県内の今回最後の訪問地は、やはり国の重要伝統的建造物群保存地区に選定される肥前浜宿へ。街並みは長崎街道の脇往還であった多良海道(多良往還)の宿場町として存立しました。多良岳山系から流出する浜川河口の在郷町であるこの町は、浜川を境に、左岸の「浜庄津町浜金津町」(港町・在郷町)と右岸の「浜中町八本木宿」(醸造町)として別個に地区指定を受けています。国道の橋近くにある駐車場に車を止め、まずは右岸の「庄金」(庄津と金津の頭文字をとった呼び名)地区へと歩を進めました。このエリアの特徴は、茅葺屋根の建物が多いことです。時代の移り変わりで茅葺を瓦葺やトタンに改めたり、現代の建築も増えていますが、その中で藩政期後期以降の町屋の姿を多く留める景観は、とても新鮮に目に映ります。この地域には鍛冶屋や大工などの職人や、港湾業に従事する人々などが住んでいたようで、往時は「浜千軒」と呼ばれるほどの繁栄を誇りました。 穏やかな浜川の流れを渡り、もうひとつの伝統的な街並みのある浜中町八本松宿エリアへ進みます。国道から入ってすぐの場所には旧魚市場があります。市場が現在地へ移転するまでは、ここが鹿島市一円をカバーする市場であった来歴があるのだそうです。白壁の町屋が続く街並みを歩きますと、多くの酒蔵が軒を連ねている美しい風景の連続に目を奪われます。良質の米と水が得られることから、酒造業が盛んとなり、それが現代まで受け継がれています。酒蔵の建物の中に、継場(つぎば)などの宿場町としての機能を果たす施設や、旧郵便局をはじめとした洋風建築が程よく混じっていまして、近代まで繁栄が続いてきた町の営みを存分に体感することができました。街並みに接して、鹿島鍋島藩に仕えた武士の屋敷である旧乗田家住宅があって、街並みに奥ゆかしさを与えていました。
徐々に日が傾き、丘陵と平地とがゆるやかに連接する佐賀県内のたおやかな風景をフロントグラス越しに眺めながら、福岡県方面へとレンタカーを走らせました。佐世保周辺の都市と自然とが調和する風景を確認して始まったこの日の彷徨は、肥前の多様な地域性に裏打ちされた、個性的な歴史的都市景観をめぐる中で、重層的に存在する大地と人々とが関わった壮大な時間軸を感じる行程となったように思いました。そして、九州一の大河である筑後川を越えて、福岡県南部の中核都市・久留米へ到達しました。 次ページへ続きます。 |
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