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九州秀景・2014年初秋
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熊本県内の都市と自然を歩く 〜都市と雄大な大地と島の景観に触れる〜 2014年9月5日、佐世保から佐賀県内の歴史的な街並みを訪ねた私は、福岡県南部、筑後地方の中核都市・久留米市まで到達し、夕刻を迎えていました。九州地方の非県庁所在都市では北九州市に次ぐ人口規模を擁し、中規模の県域中心都市並みの経済圏を擁しています。久留米市役所を起点に、新幹線駅として拠点性が増したJR久留米駅を経て、筑後川沿いに鎮座し全国の水天宮の総本宮である水天宮を経て、久留米城跡までフォローしたまでで夕闇に包まれる時刻となりこの日の活動は終了となりました。ブリヂストンの創業地として知られる久留米だけあって、駅前には巨大なタイヤのモニュメントがあって、目を引きました。鉄道駅としては繁華街により近い場所に西鉄久留米駅があって、それはJR駅よりも多い利用があります。時間的に余裕がなく、西鉄駅周辺の様子までは確認することはできませんでした。その後は九州自動車道をひたすら南下し、この日の宿泊先の熊本市内へと進みました。週末の熊本中心部は夜遅い時間帯でも多くの人出でにぎわっていました。熱帯夜を記録したこの日の熊本は、夜でもかなり暑く感じたことを憶えています。
翌9月6日は、早朝の熊本市街地を散策しました。熊本市の中心市街地は熊本城と白川との間に発達していまして、JR熊本駅は中心市街地からやや離れた場所に立地しています。その市街地のほぼ中央を、市電通りとなっている通町筋が東西に抜けて、そこを基軸に県内最大の繁華街である下通(しおとおり)のアーケード街が南へ延びています。下通の中ほどの東西の通りである銀座通りに面したホテルから下通を北へ、通町筋のパルコと地元資本の鶴屋デパートのある一帯まで歩き、九州随一の大都会である熊本の現在を感じました。西へ目を向けますと、市電通り越しに熊本城の天守を望むことができます。2016年4月に発生した熊本地震で大きな被害を受けた同城ですが、その約1年半前にその姿を観ることができたのは、今となっては貴重な経験でした。長い時間がかかるとは思いますが、いつか訪れる熊本城の再建の日を心待ちにしたいと思います。アーケード街は、通町筋を挟んで北にも「上通(かみとおり)商店街」としても伸びていまして、さらに北の並木坂へとつながっていきます。 熊本城を概観した後は、下通商店街を南に戻り、下通商店街の南端で西からつながる「サンロード新市街」のアーケードや、両アーケードの結節点から南へ、代継橋付近までの「シャワー通」の街並みを確認しました。シャワー通の名称は、ここが屋根のない街路樹の美しい場所であることから、雨の日はシャワーのように雨が降り注ぐことに因み、1970年代末頃より呼ばれるようになったものであるといいます。シャワー通から下通へと向かうルートは、かつては蛇行する白川の流路であったそうで、白川はこのあたりでちょうど「Ω」の形に蛇行し、熊本市役所付近で坪井川と合流、そのまま再び南へ折れて長六橋付近で現在の流路に戻る形をとっていました。加藤清正が城下町を建設するにあたり、治水と熊本城の防衛、市街地拡張を狙って現在のように河川改修を行い、坪井川を白川と切り離して熊本城の内堀として活用しながらそのまま海までつなげ、阿蘇山の火山灰が流入しなくなった坪井川を、城下町の物流の足としても活用しました。下通の繁栄に、遠い昔に自然条件を最大限に活用して巨大な城下町を作り上げた先人の叡智を感じました。
熊本の街並みを体感した後は、広大な平野部を南へ車を走らせて、熊本県内第二の都市である八代市へと向かいました。熊本平野を通り、宇土半島へと続く丘陵地帯を越えて、八代平野へ。内海である八代海は閉鎖的な海域ゆえに干拓も進んで、平坦な田園風景が広がっています。熊本県は全国的ない草の産地で、その中心地が八代平野なのですが、い草の収穫時期は6月から7月頃とのことでこの時は目にすることはできませんでしたが、周辺は稲穂がそよいでいまして、広大な水田の彼方には九州新幹線の高架がさっそうと横切っていました。 八代は一国一城令が敷かれた藩政期にあって例外的に一国に2つの城の配置が認められていた熊本藩におけるいわば支城の所在地として存立し、その後は熊本県南部の中心都市となり成長してきました。城跡には本丸を囲む堀と石垣、そして本丸内にあった枯山水の庭園跡が残るのみで、建造物は一部が別の場所に移築され残存するものの城内にはその痕跡は認めることはできません。明治以降、八代に墓所がある懐良(かねなが)親王を祀る神社である八代宮が創建され現在に至っています。近傍には1688(元禄元)年に八代城主三代松井直之が建立した茶庭・松濱軒(しょうひんけん)。造園当時は八代海が近く、海岸の松林や海、宇土半島、さらに遠方の雲仙をも望める佳景を誇ったといわれます。夏の余韻を漂わせつつ、秋の気配が建ち始める庭園の緑は、涼やかさときらめきとを織り交ぜたような野趣を帯びているように感じられました。
八代訪問後は北へ取って返し、想像以上に急峻な印象の宇土半島の南の海沿いを行き、天草五橋で美しい島と海とが交錯する風景を越えて天草へと入りました。2001年8月、島原半島から天草下島にフェリーで入り周遊して以来の再訪でした。その時は通過するのみであった天草上島では、天草松島と呼ばれる、大矢野島との間に展開する島々の風景を千巌山(せんがんざん)から眺望しまして、最初の来訪でも足を運んでいた崎津天主堂へ。2004年から翌年にかけて改修が行われた教会は、記憶にあったそれとは少し明るい印象でした。集落はユネスコの世界遺産暫定リストに記載された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つともなっています。ありふれた漁村風景と教会の尖塔とが美しく溶け込む風景は、地域が歩んだ哀史と人々が代々受け継いできた深い祈りの深遠さを濃厚に刻み込んでいるように感じられました。 石垣島よりやや大きいという上島と、淡路島と屋久島の間の規模を持つ下島は、自動車で移動しますと地図で見る感覚よりはかなり広大であることを思い知ります。平成の大合併によりこの地域は単独町制を継続した苓北町を除いて北部の上天草市と中南部の天草市とに集約されましたが、以前は天草地域の中心都市である本渡市と、下島南端の牛深市の2つの市が存在していましたのもその広さ故であると納得します(現在は両市とも天草市)。漁業と海運を生業としてきた牛深の町は一定の町場を形成していまして、天草というスケールよりは、九州西岸や周辺の島々との関わりにおいて輝いている地域のように目に映りました。
牛深からは対岸の長島・蔵之元港へのフェリーが就航しています。流麗な牛深ハイヤ大橋を遠望しながら、船上から長島海峡の風景を目に焼き付けました。そして、穏やかな海面と点在する島々、九州本島の山並みがつくる景観に触れて、我が国が海に囲まれる海洋国家であり、山に抱かれる島国であることを再認識しました。 薩摩半島の麓集落を巡遊する 〜武家屋敷を中心とした家並み〜 およそ30分の航行で長島に到着し、西岸の東シナ海沿いを進む国道を辿りました。丘陵性の島は平坦地が少なく、随所に段々畑が認められました。海に突き出した半島の向こうに天草の島が重なり、また南に目を転じれば甑島列島の影も望むことができました。黒之瀬戸大橋で九州本土に再び戻り、国道3号を北東へ、ナベヅルの飛来地として有名な出水平野方面へと進みました。
出水市の中心市街地である本町地区の東には「出水麓(ふもと)」と呼ばれる地区があり、藩政期における武家屋敷群と、石垣と生垣に囲まれた住区、そして改変が少ない区割りが残されていることから、1995(平成7)年に国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。麓集落については、、本稿でも何度かご紹介してきました。一国一城制度下、複数の城郭を持つことができなったため、薩摩藩は領内を複数の地域に区分しそれぞれに藩士を集住させて支配にあたらせました。これを外城(とじょう)制度と呼びます。そうした武士達が居住し地域を統括した拠点が「麓集落」と呼ばれる武家地でした。肥後国に近く防衛上重要であった出水麓は薩摩藩内の麓集落でも最大規模で、その構造は他の麓集落の模範となりました。 地区を歩きますと、石垣の上に生垣の緑が連なる風景が本当に美しくて、江戸時代にタイムスリップしたような感覚になります。武家屋敷の中には一般公開されているものもありますが、地区は現在でも現役の住宅地であり、人々の生活の舞台となって存続していることも特筆される特徴だと思います。武家屋敷の入口には往時そのままの薬医門が残っている場所も多く、領内の統治と防衛にあたった武士の日常がにじみ出るような、簡素な空間が目を奪います。出水小学校の校門は「御假屋門(おかりやもん)」と呼ばれます(県指定文化財)。御假屋とは、藩主が地方巡狩や参勤交代の際の宿泊所のことで、出水小学校の校地はその跡地です。この門は、島津義弘が居城としていた帖佐(ちょうさ、現在の姶良市)から出水へ隠居し、北辺の守りに任じたいと希望し、移築されました。義弘の移住は実現しなかったものの、この場所は後に御假屋となり、門は「御假屋門」として現在に受け継がれました。地区を歩いている途中で、激しい俄雨に遭いました。雨をしのげる場所で小休止し雨後に見た出水麓のうっすらと靄に包まれるような風景は筆舌に尽くしがたい美観に溢れていました。出水麓の重伝建指定地区の西に接する本町地区は藩政期には町人地であった場所で、商業地としての遺産を承継していました。
出水麓からは国道328号により山中に入り、丘陵地に抱かれた光り輝く水田を一瞥しながら薩摩地方の内陸を進みました。県内最大の人口を持つ町・さつま町の中心集落である宮之城はローカルな小中心として一定規模の町場を形成していまして、麓集落由来の中心地における都市基盤の強固さを観察できました。麓集落の多くはこうした町場と同様に地域における中小の中心地となっていることが多いようで、こうした地域システムの存在も、藩が残した資産の一つであるように感じます。宮之城を通過し、現在は薩摩川内市の一部となっている旧入来町の入来麓へ。こちらも麓集落の特徴を色濃く残した武家屋敷群が現存する地区として、2003(平成15)年に重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けていまして、同地区の指定を受ける出水、知覧とともに鹿児島の三大武家屋敷群とも目される地域です。樋脇川が蛇行する内側、中世山城である清色(きよしき)城のまさに麓に集落が形成されています。 出水麓で見た景色と同じように、石垣と生垣とが整然と立ち並ぶ景観を楽しみながら、明治初期に建てられこの地方の武家屋敷の特徴を残す旧増田家住宅へ。石蔵は大正年代の建設で、その時代の現状に合わせ復原され一般公開されています。旧御仮屋跡は小学校となり、校地の前には御仮屋馬場(おかいやんばば)と呼ばれる空間があって、濠が現存します。現在は集落の中ほどを貫通するメインルートとなっている中ノ馬場(なかんばば)には茅葺の武家屋敷門があって、近世の街並みの縁(よすが)となっています。犬ノ馬場(いんのばば)と呼ばれる街路を進み、石垣と生垣が残る区画に民家が建てられる現代の集落景観を抜けて歩きます。山河橋を越えた樋脇川の対岸には水田があって、稲穂が静かに頭を垂れていました。山河橋から上がる道には「風の通り馬場(かぜんとおいばば)」の名前が付けられていまして、自然と風土に寄り添うように成り立ってきた入来麓の歴史を象徴している名前ではないかなと感じました。
入来麓散策後は国道328号をさらに南に進み、途中で道を折れた山間に位置する内之尾(うちのお)の棚田(日本棚田百選のひとつ)に立ち寄った後、県道395号に取って返して県道211号に合流、姶良市蒲生町(かもうちょう)の中心集落を形成する蒲生麓へ到着した頃には日はとっぷりと暮れて、黄昏の時間帯となっていました。さすがに街並みを歩くことはできませんでしたが、暗がりの中見上げた蒲生八幡神社境内の大楠(樹齢約1,500年、根周り33.5メートル、目通り幹囲24.22メートル、高さ約30メートルで、日本一の大きさを誇ります)は、夜の闇に包まれる中でも気品ある佇まいを見せていました。
この日は宿泊を予定していた宮崎県北部の延岡市までひたすらに高速道路を進み、同市に到着したのは午後10時を回る時間帯であったと思います。旭化成の創業地として知られる企業城下町は、一定規模の中心市街地を発達させていまして、地域の中核都市としての都市基盤を十二分に備えているように感じられました。 次ページへ続きます。 |
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