Japan Regional Explorerトップ > 地域文・九州沖縄地方
九州秀景・2014年初秋
前ページからの続き
大分周遊・佐伯から竹田へ 〜城下町の面影を残す風景を訪ねる〜 2014年9月7日は、宿泊先の宮崎県延岡市を出発し北上、程なく県境を越えて、1日大分県内の諸地域を訪ねる行程となりました。早朝に延岡を出て、国道10号を辿って宮崎・大分県境の山間へと進んでいきます。両県境一帯は比較的急峻な山地であり、それは海岸に迫ってリアス海岸を形成しています。こうした山あいにも複数の自治体が存在していましたが、平成の大合併により現在は延岡、佐伯両市にすべて統合されています。山中を縫うように進んできた国道10号は、番匠川に至って突然に平野部に導かれ、同川河口部の沖積地に発達した佐伯市街地へと至りました。
佐伯は藩政期を佐伯藩の藩庁所在地として過ごし、その後も大分県南部沿岸地域における主要都市のひとつとしてその基盤を維持してきました。佐伯城跡のある城山の麓をなぞるように昔日を思わせる景観が残されています。明治期には文人・国木田独歩も青年期を教師として過ごした縁もあって、この山際のルートは「歴史と文学のみち」と呼ばれ、日本の道100選にもその名を連ねています。佐伯はまた、湾奧に位置し大入島に守られる天然の良港としての顔もあります。2002年7月に訪問した折は、佐伯港から四国高知県の宿毛まで就航しているフェリーを利用し、四国まで移動したこともありました。国道10号から国道217号に入り、佐伯市街地内にある市営駐車場に駐車し、散策を始めました。 国道217号(本町通り)の一筋南にはアーケードのある商店街(仲町商店街)が東西にあって、佐伯の町としての規模を象徴しています。日曜の早朝という時間帯もあってか、人通りはほとんどありませんでしたが、一見して営業をしていないと思われる店舗が多く認められて、地方における中心商店街の現状が端的に表れているように思われました。商店街の西の入口近くの大手前交差点はその名のとおり佐伯城の大手門跡に位置しています。交差点から北へ伸びる内馬場通りは、城山へ向かって緩やかに取り付けられていまして、街路樹の松並木が山並みの緑と重なって、とても瑞々しい風景を見せていました。突き当りにある佐伯文化会館は旧三の丸跡に建てられていまして、正面には石垣と三の丸楼門(県重要文化財)が現存しています。
文化会館前から北へ、「歴史と文学のみち」を歩きます。市道としての名称は「山際通り」と呼ばれるルートを中心とした道沿いが、歴史的環境保存地区として修景されています。佐伯城に近い城山山麓に沿ったこの一帯は、かつては藩主に仕える上級武士の邸宅が建ち並ぶ武家屋敷街で、石垣や薬医門、白壁の土塀などが通りに沿って美しく配されていまして、その当時の街並みを思い起こさせる景観が広がります。藩医が城下町住民のために私財を投じて掘削したという安井(あんせい)や、武家屋敷跡を屋敷の礎石を中心に広場として整備した「山際史跡広場」なども存在しています。通りの北端には、藩主毛利家の菩提寺である養賢寺(ようけんじ)。緑濃き城山を背景に建立された堂宇は、城下の街並みを穏やかに見守るような威風を存分に備えていました。 佐伯の町を概観した後は、国道217号のバイパスを経て国道10号に戻り、国道57号から西へ進んで、大分県西南部の中心都市・竹田(たけた)市へと車を走らせました。その途上においては、奥深い山並みを抜けながらも、谷筋の盆地を通過する場所には随所に旧市街や郊外的なロードサイド型商業地も発達していまして、大規模な平地が少なく山がちな大分県の地域構造の現状を十分に確認することができました。竹田は岡藩の城下町として藩政期を過ごし、都市としての土台を築きました。蛇行する稲葉川と、その南を流下する玉来川に挟まれた盆地に形成された市街地へつながる道路の多くはトンネルを介することから、竹田は別名「レンコンの町」とも呼ばれます。市街地東方の岡城址は、滝廉太郎が「荒城の月」の着想を得たとされる場所です。
武家屋敷をイメージした瓦屋根の駅舎が目を引くJR豊後竹田駅近くの駐車場から、稲葉川を渡って市街地へと入ります。古町通りの商店街を一瞥しながら稲葉川を左手に進んで下本町通りへと進み、八幡川横丁と刻まれた石の道標のサインに従い、石畳の狭い小路を歩きます。横丁を抜け、右へ折れますと、正面には八幡山と呼ばれる小丘があって、苔むした石が歴史を感じさせる石段が付けられていました。八幡山の麓は岩場が剥き出しとなっていて、十六羅漢の石仏が穿たれていました。岩盤の上には石垣が築かれこの十六羅漢を境内に取り込む観音寺があり、また石段を上った先には愛染堂(重要文化財)の流麗な建物が訪問者を優しく迎え入れていました。市内最古の建造物であるこのお堂は元来は岡藩二代藩主中川久盛により1635(寛永12)年に大勝院という寺院の愛染堂として建立されました。明治に入り大勝院が廃寺となった後、1874(明治7)年に岡城内にあった願成院(がんじょういん)がこの地に移り、以降は願成院の本堂となっています。この八幡山一帯は寺町としての色彩を帯びていまして、寺院の堂宇が緑の中に穏やかに佇み市街地を見下ろす風景は、城下町ならではの情趣を感じさせます。 石段を下りて、大分県内でも類例が少ないという二重門の山門を持つ豊音寺を拝観しながら、滝廉太郎が12歳から14歳まで郡長であった父に従って住んでいたという家(瀧廉太郎記念館)前を通り、「廉太郎トンネル」と呼ばれるトンネルをくぐり、拡幅された県道沿いの市立歴史資料館前へと出ました。資料館脇の石段を上るルートは「歴史の道」の愛称が付けられていまして、石段越しに見通したり、高台の散策路から眺望する市街地は、藩政期から保ち続けてきた町場の風情を存分に感じさせていました。旧竹田荘は、岡藩の藩医の家に生まれ、文人画家として活躍した田能村竹田の邸宅です。旧竹田荘から市街地を取り囲むように進む殿町通りはかつての武家地で、土壁と薬医門が続く、昔ながらの武家屋敷の風致が残されるエリアを構成しています。東の城郭と西の城下町という配置の中で、城下の中央に町人地を置き、城の近い位置と城下町の周囲を武家地とする藩政期の縄張りが、現在の竹田の町にもそのまま生きていることには、新鮮な感動を覚えました。
田町通りから古町通りへ、碁盤目状に割り出された城下町の構造を残す中心市街地を辿って駅前に戻り、レンタカーにて岡城址へ移動しました。稲葉川と玉来川が合流点に迫り上がるようにしてある断崖の上に岡城址はあります。天然の要害にある城は、まさに「要塞」としての機能を存分に発揮した中世から戦国期までから、藩政の中心としての位置づけとなった藩政期全般に至るまで、一貫して各時代における「城」としての役割を持ち続けた稀有な城郭でした。城下町から丘陵を上がり、政庁機能が置かれた総役所跡(駐車場がある一帯)へ、そこから西の丸、三の丸、二の丸、本丸へと城内は展開していきます。そのため、高い場所にありながら本丸からは城下町を見下ろすことができず、周囲は山々の森のみという様相でした。谷間にそのまま落ちていくような石垣は重厚そのもので、山々の緑が織りなすなめらかな風景と一体となって、山深い地域の原風景を映し出しているように感じられました。この日は曇天でしたが、晴れていればくじゅう連山や祖母・傾山系の峰々、そして阿蘇連山などを一望することができるようでした。 宇佐神宮から国東半島へ 〜八幡神と仏教信仰の大地〜 大分県北部、周防灘に面する一帯は山がちな同県内にあっても例外的に平坦な地形が広がる場所で、県内最大の穀倉地帯が形成されています。古くは福岡県東部とともに豊前国を構成していまして、現在でも豊前市を中心としたエリアと中津市を中心とした地域は日常生活圏を一にしています。そんな肥沃な大地を俯瞰するような丘陵地の麓に、全国に4万4,000社ほどもあるといわれる八幡宮の総本社である宇佐神宮が鎮座しています。竹田から国道442号を辿って山深い地域を縫うように進んで大分市に至り、大分道を北進してたどり着いた宇佐神宮は、幹線道路の国道10号にその境内地を接していました。
八幡神は清和源氏などから武運の神として信奉され、全国の武士によって崇められることによりその信仰が広まりました。そのもとはここ宇佐地域において信心されていた地方神で、農耕神とも、海の神とも、あるいは鍛冶の神ともされているようです。現在の神道では、神代に比売の大神が降臨した宇佐の地に、571(欽明天皇32)年に応神天皇の神霊が八幡大神として現れて、応神天皇の母である神功皇后とともに「八幡三神」として祀っています。国道沿いの駐車場から表参道商店街との間のイチイガシの並木を歩き、瀬戸内の典型的な気候を反映た穏やかな晴天の下、寄藻川に架かる神橋を渡って境内へ進みます。 宇佐神宮の本殿は、小椋山(亀山)と呼ばれる山上に鎮座する「上宮」と、石段を下った先に佇む「下宮」とからなります。大鳥居をくぐり、菱形池のほとりを通り、亀山を上る石段にまで至りますと、周囲はみずみずしい社叢に包まれるようになって、厳かな空気に支配される静かな空間へと移り変わります。朱塗りの流麗な南中楼門は上宮内郭の正門で、閉じられた門の向こうには、国宝指定を受ける本殿が鎮座しています。下宮は御炊(みやけ)宮とも称し、御饌をつかさどり、農業をはじめとする諸産業の発展に寄与するとされます。広大な平野を望む位置にあり、やがて全国津々浦々にその神威を高めていった宇佐神宮の風景は、農業と水運によって産業を興し、国の礎を築いてきた日本の歴史に重なるように思われました。宇佐神宮を後にして、隣の中津市に入って程近い場所にある薦(こも)神社へ。宇佐神宮の本宮とも伝わるこの神社は、背後の三角(みすみ)池を御神体としており、池に群生する真薦は、宇佐神宮の御神体である御枕にされたともいわれます。周囲の森と彼方の山々に向かうように広がる三角池は、遥か昔この地域を開発し稲作を伝えた渡来人の手になる溜池のひとつではないかとも言われていまして、その静かなたたずまいは幾星霜の時を越えて、この土地を求めた人々の鼓動を響かせているように思われました。
この日の大分県内彷徨の最後は、宇佐神宮から東へ、円形に周防灘に突き出す形となっている国東半島を目指しました。国東半島は古来より山岳信仰が盛んであった場所で、宇佐神宮における神仏習合の八幡信仰などの影響も受けて修験の場となり、やがてそれらが数多くの寺院群を生みました。この寺院群を「六郷満山」と呼び、国東半島に花開いた神と仏が複雑に絡み合う文化を「六郷満山文化」と言っています。国東半島の沿岸部を周回する国道213号を進み、日本一大きい石造仁王像と呼ばれる犬田(いんだ)交差点に立つ仁王様に見送られながら、近畿地方より西では希少な平安建築として国宝に指定される大堂のある富貴寺(ふきじ)へ。のびやかな緑に覆われた境内に静かにたたずむ阿弥陀堂(大堂)は、その自然に寄り添うような均整の取れた姿を見せていまして、神仏に救いを求めた人々の営みをそのまま投影しているように感じられます。国東半島は先に紹介した石像をはじめ、風景に溶け込むような石造物が多いことでも知られまして、境内には仁王像や国東塔(国東半島独自の宝塔で、納経や生前供養、墓標などのために造られたもの)などが多く営まれていました。 さらに国東半島の山々を抜けて、開削された深い谷間に開かれた水田の美しい景観や山並みなどを確認しながら、718(養老2)年に、六郷満山の開祖とされる仁聞菩薩によって開かれた両子寺(ふたごじ)へと向かいました。国東半島最高峰の両子山に抱かれるようにしてある山内は、深閑たる森に包まれていまして、本山、中山、末山の3つに分類される六郷満山のうち、中山本寺として栄えたという歴史をその風致の中に宿しているように思われます。山門へ続く石段の入口に立つ石造の仁王像もまた、国東半島で繁栄した信仰文化の態様を存分に表現していました。
国東半島の信仰の文化を肌で感じた後は、海沿いに下って国道213号をそのまま南下して海岸沿いの風景を確認して、杵築、日出、別府を通過して大分に向かい、レンタカーを返却、列車にて中津へ進んでこの日の活動を終えました。これにより、3日間にわたった九州をめぐる行程は終わり、翌日は関門海峡を越えた下関散策を行って、北九州空港から帰路に就くこととなりました。下関におけるフィールドワークの記録は別稿に譲ることとします。長崎県佐世保から始まった今回の旅程は、九州に存在する多様な自然と町場とを存分に堪能できる機会となりました。 東海や北陸、山陽、山陰など、本州を中心とした地方ブロックの名称は、京都から放射状に延びた幹線道路に沿った区分を基礎としているのに対し、九州や四国(紀伊半島も含みますが)はそれのメタファーとしての西海道、南海道という呼称を与えられながらも、それらは地方名としては残らず、国の数を表した九州、四国という呼び名が後世に一般化しています。これらは線上に捉えきれない単一の島を領域としていたこともあると思いますが、そのこと以上に九州というこの島を構成する各地域がそれぞれに多彩な個性を持っていて並立していたことがその背景にあったのではないかと思えてなりません。海と、山と、大地と、川とが美しく寄り添い、きらめいて、そしてそれらの風土が重層的に昇華した文化に色づいた場所。九州は、そんな魅力にどこまでも満ち溢れていました。 九州秀景・2014年初秋 −完− |
このページの最初に戻る
地域文・九州沖縄地方の目次のページにもどる トップページに戻る
Copyright(C) YSK(Y.Takada)2017 Ryomo Region,JAPAN |